第5回 秋の城下町、大洲を歩く
秋の大洲に行こう。
栗が落ち、鵜飼(うかい)が終わる頃には、暑い大洲の夏も終わりを告げる。
少しずつ、霧の日が多くなり、肱川の如法寺(にょほうじ)河原は「いも焚き」の人出で賑わう。
大洲は愛媛県でただ1つ、海のない城下町である。肱南(こうなん)と呼ばれる肱川左岸に広がった古い町並みを歩いてみた。
城跡の高校
歩き始めは県立大洲高校である。大洲高校は昔の大洲城三の丸の跡にある。ドイツのハイデルベルク大学ではないが、古城の中にある学校なのだ。正門右手の第1グランドはかつての外濠跡。グランドを見下ろすように、城の東南を守る隅櫓(すみやぐら)が建っている。1度焼け、18世紀後半に再建されたものだが、そのせいか、防戦用の石落としは、ただの装飾になっている。櫓の隣にはかつての藩侯加藤家の邸(やしき)跡があり、さらに前方には、本丸の石垣と櫓が見える。4層4重の天守閣は明治時代に解体されて今はない。グランドでは、石垣を背に女子生徒がテニスの授業中である。
正門に戻り、事務室にことわって、校内の奥にある陽明学者中江藤樹(なかえとうじゅ)の邸跡「至徳堂(しとくどう)」の方へ行ってみる。建物は当時の百石取りの武家屋敷を模したものである。小さな門を潜ると、庭には滋賀県の藤樹書院から苗を分植したという藤棚や藤樹のレリーフがある。「自由にご覧下さい 大洲高校」と玄関の式台の上に札が置いてあった。座敷は、茶道部の練習場として活用されているようで、茶釜が据えてあり、奥の台所には茶道具がきちんと置かれていた。陽明学者の邸、厳しい学問の場というよりは、どことなくほっとする雰囲気がある。生徒たちが大切に使っているので、建物が生き生きしているせいだろう。学校が歴史的環境の中にあることはほんとうに、すばらしい。至徳堂の訪問者の中には、茶道部の生徒たちにお点前を振る舞われた幸運な人もいたようであった。
肱南の町並みを歩く
肱川左岸、肱南の町割りは17世紀の昔とそれほど変わっていない。寛永20年(1643)に作られた『大津総町中之絵図』には、本町筋、中町筋、裏町筋があり、東の端には今の志保町である塩屋町通りがある。住む人や店は代替わりをしているが町の骨格はほとんど同じだ。蔵造りの商家が残る町並みを歩けば、中町3丁目にある提灯のひらぢ屋商店が健在だ。ご当主で6代目、200年の歴史を伝える老舗である。本町と志保町通りが交差する場所に大洲名物の餅菓子、志ぐれ餅の二葉屋がある。栗入り志ぐれ餅がおいしい。淡泊で品のよい甘さ、嫌みのない味だ。出来立ての栗入り志ぐれ餅を抹茶と冷たい煎茶で食し、しばし足を休めよう。志保町界隈は明治に入って初めて肱川に橋が掛けられた場所。かつては商家や料理屋が立ち並ぶ大洲の中心街だった。大正2年の肱川橋の架橋で町の中心は肱川橋通りに移り、今は蔵造りの民家や格子に昔の繁栄をしのぶばかりだが、志保町から、柚木(ゆのき)にかけての町並みの美しさは大洲でも屈指といってよいだろう。
神楽山の大洲神社や、臥龍山荘を訪れ、柚木で肱川を渡り、道を右に取れば、冨士山(とみすやま)山中、盤珪禅師の寺如法寺はすぐそこだ。
〈参考〉
『肱川 人と暮らし』(横山昭市編著)、『大洲市誌』
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