第61回 二宮敬作の故郷
西宇和郡保内町磯崎(いさき)
東宇和郡宇和町で開業し、恩師シーボルトの娘イネを養育した蘭方医二宮敬作は西宇和郡保内町磯崎で生まれた。磯崎は海を目前にし、山を背にした風光の美しい小さな村である。瞽女(ごぜ)ヶ峠にトンネルが開通し、八幡浜から、驚くほど近くなったので出かけてみた。
つくす人
二宮敬作(1804~62)の名は、つい最近まで、愛媛県それもこの南予地方以外ではそれほど知られていなかった。
ベストセラーとなった吉村昭の『長英逃亡』や『ふぉん・しいほるとの娘』、そして司馬遼太郎の『花神』などの歴史小説のおかげで少しずつその名が全国的に通るようになったが、それにしても、シーボルトの弟子でその娘イネを女医に育てただとか、あるいは、鳴滝塾の同門高野長英を匿っただとか、宇和島藩に村田蔵六、後の大村益次郎を招聘する手助けをしただとか、とにかく人のために何をなしたかということで補足的に語られることの多い人であることはたしかなことである。この事実は、もちろん悪いことではない。たしかに、敬作本人はただ人に知られることを望んだ人ではなかった。
私は、二宮敬作についてふれた文章の中では、哲学者の鶴見俊輔が書いたものがいちばん好きである。
「敬作の生涯については、富士山の高さを実測をはじめてしたという仕事が恩師シーボルトによってその帰国後にヨーロッパでひろめられ、彼の名は1909年にドイツで出版された世界人名辞典に日本の理学者として記されているという。
しかし、敬作はそういう学問的業績以上に、人に誠実をつくした事蹟によって記憶さるべき人である。長英を10日かくまったという如きは、この人の生涯にとっては、その当然の1コマにすぎなかったと言えよう。……二宮敬作は実学者であったが、長英のようにその能力を軍事研究にふりむけることをせず、したがって宇和島藩に重用されることなく終わった……。」(『高野長英』鶴見俊輔)
鶴見は、一介の町医者として、出身地や、身分の区別なく病人に対した敬作の人柄を過不足なく記している。敬作は自分が何を成したかを人に知らしめることには関心がまるでなく、人のために自分に何ができるかをいつも考えている人であったのだと言うのである。
鶴見の母親は後藤新平の娘である。後藤は岩手水沢の出で高野長英の後裔であり、宇和島の長英潜伏先に建てられた石碑の揮毫もしている。後藤の孫の鶴見も、国法を破った逃亡者であるご先祖様の長英を庇護した敬作に感謝の念を抱いたのに違いない。しかし、なによりも、鶴見は敬作の生き様に、人間のプライドとはなにかという1点で熱い共感を抱いているのではないだろうか。
私は、鶴見の文章を読むたびに、かつて、わが故郷にこれほどの無私の人が存在したという事実に励まされる想いがする。そして、私たちがしばしば、聞かされる敬作についての口碑は、人に知られることよりも人に誠実をつくすことに自分のプライドをかけた敬作の生き方をそれとなく証するものが多いことが思われるのである。
生家の跡
梅雨の晴れ間の日に磯崎に出かけた。瞽女(ごぜ)トンネルが開通したせいで保内町の中心部から10分ほどで着く。瞽女トンネル、を抜け、磯崎トンネルを通り過ぎると国道の左の道路に接した小さな丘の上に二宮敬作の銅像が見えてくる。平成3年3月につくられた「二宮敬作記念公園」である。眺めがとてもいい。敬作像の眼差しも海に向けられている。
吉村昭は『ふぉん・しいほるとの娘』でイネの見た敬作の風貌を次のように描いている。
「敬作は医者というよりは武士のような風貌をしている。決してととのった顔だちではなく、色は黒いし殊に鼻がつぶれたように低い。が、眼だけは「学問のよくできる医者」らしく澄みきっていた」。資料を渉猟した上での、吉村の想像力の所産であることはいうまでもない。知的で、志が高く、圭角(けいかく)があるが、それでいて、どこか人を安心させる質樸なやさしを持った人というところであろうか。公園の銅像の顔はやさしく、整っている。穏やかでやや恰幅がよい。
公園の脇の細い道に入り、海に向かって流れる小さな川にそって下ると、すぐに敬作の事績を記した白い看板のある小さな民家が見えてくる。敷地の入口に二宮敬作出生地跡という小さな碑が建っている。敬作の生家跡である。敬作が生まれた家は文化11年(1814年)の磯崎浦大火で焼けた。今の家は敬作が少年の頃に建てられたものである。建具が1部サッシになっているが、どことなく歴史を感じさせる。敬作は1804年5月10日に生まれた。生家は酒などの商いもする半農半商の家で父は六弥、母はシゲ、村ではやや裕福な方であったそうだ。敬作は16歳の時に医者になることを志し、故郷を出て長崎に出た。幕末に、この僻遠の地から旅立った少年が、苦学力行して、シーボルトから当時最先端の西欧の近代科学と医術を身につけたということは驚くべきことではないか。
石波戸(いしはと)
敬作生家跡から、狭い路地を抜けて、海に向かって歩いた。土地が狭いから家は寄り添うように建っている。古風な酒屋や雑貨屋の前を通って、五分も歩かぬうちに磯崎港に出た。
磯崎は昔から瀬戸内海海上交通の要衝であった。背後に壁のように聳える山を越えると平家谷という平家落人伝説の地があることも磯崎がよく知られた港であったことを思わせる。江戸時代になってからは参勤交代の中継地として、また物流の拠点として南予地方の瀬戸内海側の玄関口として重きを成していたようだ。港の入口に「磯崎港石波戸」の小さな碑があるが、今のコンクリートで築造された港の足元を見ると、江戸時代後期、1847年(弘化4年)から村人総出で築造された石波戸がそっくりそのまま残っている。この地方に産する緑泥片岩いわゆる青石を組み合わせたものだ。敬作もこの石波戸から長崎に船出したに違いない。私は麦わら帽子のおじいさんが昼寝している堤防の上を歩いて、古い石積みの跡をたどった。ところどころコンクリートでかくれているがたしかに今の港の基部は昔の石波戸であることがわかった。
敬作はシーボルト事件が起きたとき、師シーボルトをあくまで庇い続けたため、「江戸構(えどかまえ)長崎払い」の刑を受け、磯崎に帰ってきた。敬作27歳の時である。大洲の上須戒の西家のイワという娘を娶(めと)り、上須戒村で開業したが、3年後に宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の命を受けて東宇和郡宇和町卯之町で開業した。敬作の墓が長崎皓臺寺と卯之町光教寺にあり、邸の跡が卯之町にあるせいか二宮敬作というと、卯之町の人ということになりがちだ。しかし、敬作の生き方、思想をはぐくんだ風土に加え、少年時代を過ごした頃の家が残り、長崎に旅立った石波戸が現存する磯崎もまた敬作を敬慕する人々にとっては、忘れることの出来ない土地であろう。
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