現在松山大学のセミナーハウスなどとして活用されている兵庫県西宮市の、旧新田長次郎邸を見学した。スパニッシュとアール・デコと和風が一体となったこの建物は愛媛県庁や萬翠荘を設計した建築家木子七郎の作品である。
新田長次郎
何年か前に、南海放送テレビでこの家を建てた新田長次郎を回顧する「もう1つの坂の上の雲」という番組が放送されたことがあった。地元の松山では、松山大学(旧松山高等商業学校)の創立者として知られる新田長次郎は、明治から大正、昭和へと、類いまれな行動力と先見性によって人生を切りひらいて行ったまさに立志伝中の人物であった。(松山大学のホームページに新田の一生を詳しく紹介してある)
新田は、幕末の安政4(1857)年伊予国温泉郡山西村(現松山市山西)に、父喜惣次と母ウタの次男として生まれた。家は豊かな本百姓の家であったが、5歳の時に父親が急逝した後、家運が傾いた。母のウタが気丈な人で、農業を続けながら苦しい生活を支えて、5人の子供を育て上げたという。新田は野菜の行商などで、母を助けながら、9歳からの3年間を寺子屋で学び、16歳の頃には、村長から教えられた福沢諭吉の『学問のすすめ』の四民平等、独立自尊の精神に大いに啓発を受けたそうだ。
そして、明治10(1877)年、20歳の誕生日の前夜、新田は青雲の志を胸に、大阪に出る。2、3の職に就いた後、西洋式の製革業を身に付け、明治18(1885)年には独立して、初めて自分の工場を持った。
新田が始めた工業用ベルト製造の事業は着実に業績を伸ばし、明治26(1893)年には念願だった欧米渡航を実現した。
アメリカからヨーロッパに廻った新田は、パリの日本公使館で、正岡子規の叔父である代理公使の加藤恒忠の知遇を得た。加藤恒忠は旧松山藩主久松定謨(ひさまつさだこと)の随員としてパリに遊学し、外務省に入省、新田が訪れる前年、パリ駐在の書記官に任ぜられて、パリ大使館にいた。同郷の加藤と新田はこの出会いがきっかけとなって、生涯の友となった。
明治42年に、新田帯革製造所(現ニッタ株式会社)を設立し、大正7年には膠、ゼラチンの製造に着手し、大正8年にはニッタベニヤ製造所をつくった。ベニヤ板は新田が製造した合板の商品名である。
新田は、日清、日露、第1次世界大戦と進む戦争の時代の中、時代を先取りする広い視野と決断力を発揮して順調に社業を拡大したのである。
友隣小学校
社業がその地歩を固めた頃に、新田は他の経営者のほとんどなしえなかったことを1つやった。それは工場のあった難波警察署管内の貧しい人々の子供たちのための私立夜間小学校の設立である。明治44年、新田は、難波警察署長の要請を受け、家計を助けるために働き、昼間の義務教育を受けることのできない子供たちのために、夜間教育を施そうと、民家3戸を借受け、私立有隣尋常小学校を立ち上げた。校長、教職員を採用し、学校に関わる費用はすべて新田が負担し、児童の衣服や履物、学用品の一切を支給したという。
この小学校は順調に発展し、後に昼夜2部の開校となって大阪市立有隣勤労小学校となった。新田は困難な少年時代に、福沢諭吉の「学問のすすめ」に触発されたという。「独立自尊」の基盤となる初等教育がすべての子供たちに施されるべきであることを理屈ではなく心と体に刻み込んでいたのであろう。
新田のつくった新田帯革製造所は、昭和11年の新田の死後も、第2次大戦をのり越えて着実に発展、現在は、工業用ベルトや産業機械のトップメーカー、ニッタ株式会社として成長を続けている。
また、新田が私立有隣尋常小学校を市に譲った後、故郷に創立した松山高等商業学校は松山商科大学を経て、松山大学となり地方私立大学として、独自の堅実な校風を維持し、多くの人材を輩出している。
松山大学温山記念会館へ
現在、松山大学温山記念会館として使われている西宮市甲子園口の建物は、この新田長次郎が、若くして亡くなった長男利一(りいち)の後嗣(こうし)、利国(としくに)のために建てたものである。
11月半ば過ぎに、この旧新田邸が国の登録文化財に指定された頃に見学する機会を得た。JRの甲子園口の駅を海側に出て、駅前のロータリーから左手の道を少し行く。1本目でも、2本目でも構わない、左に曲がると道路の真ん中を小さな川が流れる道に突きあたる。その川沿いの遊歩道のように整備された道を西の方へ進むと、駅からほんの数分で松山大学温山記念会館に着く。落ち着いた住宅地の中でも、一際、敷地の宏壮な邸であるし、入口の左手の植え込みの中に建物の来歴が記された案内板があるのですぐわかる。
この建物を見学したいと思ったのは、名著『建築探偵の冒険』の著者藤森照信氏と建築写真家増田彰久氏のコンビによる『歴史遺産日本の洋館第5巻 昭和編1』を読んだからである。増田氏の美しい写真と見所を的確にわかりやすく示す藤森氏の文章に引かれてここまでやって来た。
木子七郎(きこしちろう)
この建物を、設計した建築家は木子七郎である。木子は宮内省の工匠木子清敬(きよよし)の4男で、兄の幸三郎も著名な建築家である。
木子は明治44(1911)年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、大林組に入社した後、大正2(1913)年に退社し、大阪に建築事務所を開いた。大正10年にはアジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなどを視察、大正12(1923)年に東京の麹町に事務所を開設、大正15年(1926)年関東大震災の復興事業の復旧事務終了とともに引き上げた。
木子七郎は、今年取り壊された銀座の新田ビル(ギャルリー参照)など新田関係の仕事の他、愛媛県庁、久松定謨が建てた萬翠荘、今出の鍵谷カナ彰功堂、三津の石崎汽船本社など松山関係の仕事が多いのは、新田長次郎の長女かつ子と結婚したことが大きいという。(前出の『日本の洋館』による)
管理人の方の説明を聞いた後は、自由に館内を見せていただいた。
まず、藤森氏が見所としてあげた箇所を一通り見る。玄関のスパニッシュタイルと玄関脇の窓に使われた古代や中世のガラスの形式を伝えるというクラウンガラス。たしかに牛乳瓶の底のような形をしている。ともに細工も見事で、色合いに深い味わいがある。
2階のビリヤードルームの台や床の寄木張り。アール・デコのデザインがほどこされた家具やステンドグラス。空間にアクセントをつけたという階段の親柱の45度のねじれ等々。セミナーハウスとして活用されているので、それぞれの部屋には簡易ベットが置かれてあったりしたが、一流という和室の佇まいも含めて素晴らしい建物という印象が強かった。
一巡して、1階の広い客間に下りた。突き当たりの新田長次郎夫妻の胸像を見た後、外に出て庭を一回りする。NHKの朝の連続ドラマ「わかば」のロケにこの家が使われたと言うことを管理人さんに伺ったが、確かに庭に出ると、見おぼえがある気がした。
庭から和風とスパニッシュが不思議に調和した建物を眺めながら、明治の時代に自己を形成して財を成した新田長次郎という人が、若い頃福澤の学問のすすめに動かされ、コロンブスの新大陸発見に感動したこと、事業の基礎を築いた後、2度に渡って海外の事情を視察に出たことなどを思った。木子七郎の細部に及ぶ、洗練された本格的デザインと長次郎が好んだという庭の深い池や築山のどこか鄙びて親しみのある雰囲気の対比も面白かった。