第76回 宮ノ下堰をたずねる
喜多郡内子町麓川
9月の中頃、休暇を取って帰郷した友人のMと内子町麓川沿いの堰を訪ねた。今も田に水を引くために使われている堰や小さな水門、イデと呼ばれる水路などを見ると、昔の人々が米を作るために積み重ねてきた知恵と苦労のあとを垣間見ることができる。
内子駅で
松山生まれの友人Mは東京の大学で生物学を教えている。京都の学生時代には、屋久島のニホンザルの群れを調査したサル学者である。去年1年間はタイのカオヤイ国立公園の熱帯雨林でブタオザルの群れを追っていた。ひと月ほど前に「休暇で松山に帰る。1日半時間がとれる。どこでもよいから南予を見たい」というEメイルが届いた。南予と一口に言っても、狭くはない。1日半とは、あまりに時間が少ないので、とりあえず、内子駅で朝9時に待ち合わせることにした。車で内子、大洲、卯之町と南下し、私が独断で選んだ所を成り行き任せで案内する。その日は、吉田町の我が家に泊まり翌日は、陣屋町吉田のさわりを見せ、旧道から法華津峠に上って卯之町に下り列車で松山へ。そんなアバウトな目論見を立てた。
9時少し前に内子駅に着くと、もうMが高架になった駅の下のロータリーに立っていた。Mから内子の町並みは、1度見たことがあるということを聴いていたので、すぐに町並みを通り抜け、麓川に沿った石畳への道に入った。堰や屋根付きの田丸橋を見に行くことにしたのである。
宇都宮神社
内子の町内を出て10分くらいして、道が切り通しのようになったところに「宮ノ下堰200メートル」という木に似せたコンクリートの案内柱が立っているのに気がついた。車を路肩に止め、Mと二人で川の方に下る小道に入った。実は、私はこの堰を見るのは初めてである。Mが一緒ということもあってか、なんとなく見てみたいという気になった。道の右側のすぐ下には民家があり、民家の脇から川まではずっと水田が広がっている。視線を少し上げると川と水田の境目あたりで、白茶けた土がむき出しになっていて、バックホーが見えた。道を押し広げたような場所に何台かの車が止まっているのが見える。護岸工事かなにかだろうか。水田と、切り通しの道路から続くこんもりした森の間を通って川に続くこの小さな道だけが周囲から取り残されたかのように静かであることに気がついた。
川に向かって100メートルほど下ると、左手に古びた青石の石段があった。見上げると、草や雑木が茂った石段の中程に石の鳥居が立っている。Mが石段の3段目が4段目の真ん中あたりに生えだしている小さな木を見て、「アカメガシワの木。実生やな。これは、年輪を調べたら判るけど、きっと3年は経っとるよ」と言った。
鳥居をくぐって上に出ると、立派な拝殿と本殿があった。少し荒れた感じはするが、彫刻も美しく、風格のある建築だ。靴を脱いで拝殿の中に上がると文政7年(1824)年と記された鳥居と神社普請の寄進板がある。さきほどくぐった美しい鳥居の凛とした文字は江戸末期、尾道の石工が刻んだものであったようだ。掛かっている絵馬には、赤穂浪士の大石内蔵之助の絵馬や、新しいのでは、昭和50年の卯年のものなどもあった。
宮ノ下堰
川への道に戻り、少し下ると、道に木の枝が垂れ下がった先に、小さな堰が見えた。小さいといっても川幅が20メートル近くはあるから、手頃な大きさの石を集め、細工をしながら、人力で積み上げたとなるとたいへんな労力であったろう。堰の上をセメントで塗り固めてある他は特に手が加えられた様子も見えない。両側に小さな水門があり、幅が1メートルもない細い水路が川の両岸の田の方へ延びている。おばあさんが1人、水田の中の畑に種を蒔いていた。Mが堰の写真を撮っている間に、少しだけ、お話を聞いた。若い頃は藁やすさを石の間に詰めて堰に水をため、イデに水を溢れさせて田に水を引いたそうだ。しかし、石の隙間から、水が漏れて、なかなか水を堰き止めることができず大変だったという。30年以上も昔、セメントで堰の上を固めてからずいぶん水を止めるのが楽になったそうだ。今も、5月の初め、田に水を引く季節が来るとイデの掃除をし、堰を閉めて、水を引く。昔は野菜を洗ったりするのにも川の水を使ったが今は大根を洗うくらい。稲が実った9月の半ば過ぎには堰の中央部を広げて水を落とし田んぼの水を抜くのだそうだ。
田丸橋のジュズダマ
県道に戻り、屋根付きですっかり名所になった田丸橋へ。Mと橋の上に立ってぼんやりとしていたら、Mが突然「あっジュズダマ」と下の川の草むらを指さして言った。私がジュズダマなんて草は知らないと言うと、Mは、「ジュズダマはイネ科でアフリカ原産なんじゃ。稲と一緒に日本に伝わったという人もいる。それよりも、子供の頃、ジュズダマで遊ばんかったか。首飾りをつくったりして」。そんな覚えは自分には少しもないと答えた私にMは「おまえは、そういえばよくカエルをいじめて遊んどったなあ」と納得したような顔をした。
Mによると、われわれの小さい頃には、ジュズダマは水田の脇や小川のそこかしこに生えていたそうだ。けれども、今はその姿を見かけることがめっきり少なくなったという。私は、ジュズダマで遊んだ記憶がないせいか、川の下に茂っている雑草をそれほど身近に感じることはできなかった。しかし、Mのように、子供の頃にジュズダマに親しんだ者が生物学者になって、遠いアフリカに渡り、子供の頃に見たのと同じジュズダマが茂つているのを見たとしたならば、激しく胸が高鳴ったに違いないことはよくわかる気がした。
後日、私は、2、3の知人や家人にジュズダマを知っているかと尋ねてみた。するとみんなが知っていて、遊びの内容までMと同じだったのには我ながら恐れ入った。
Mからの手紙
私たちは、それから麓川沿いの、いくつかの堰を見た。中には昔の人の仕事の跡がすっかり機械で整えられて、まるで親水公園のように大きくしつらえられたところもあった。また、宮ノ下堰のように昔の堰の上をセメントで固めただけのものもあった。旅を終えて東京に帰ったMの手紙にはこんなことが書いてあった。
「今回の旅のキーワードは、スケールでした。宮ノ下堰は、小さな河岸段丘面を田として開拓するために人々が汗を流し、営々として築いた堰だったと思います。今の技術からすると何でもなさそうに思えるかもしれないが、石垣を築くように1つ1つ石を集め、細工し、組み上げていった知恵と労苦はたいへんなものであったことでしょう。この先人の土木工事のスケールが保たれた、小さな堰や水路を仔細に見ていると、農業にとって水がどれほどの生命線だったのかがよく伝わってきました。長い人類の歴史の中で、人々は何よりも、学問よりも、芸術よりも、食べものを得るための農業にこそ、最大の汗を流してきたことは誰が考えても明らかなことでしょう。栽培植物と農耕の起源についての研究で先駆的な仕事をした中尾佐助は「農業は人間がそれによって生存している文化である。消費する文化ではなく生産する文化である」と言っています。「耕す」という言葉から生まれた「カルチュア」と言う言葉に文化を代表させるのは全く妥当なことにちがいありません。先人の貴重な文化遺産である堰や水路を保存する時は、ヒューマン・スケールを守り考証と保存と修復を丁寧に進めてこそ地域の文化が生きるのではないかと強く思いました。」
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