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第72回 陶成学校をたずねる
 
北宇和郡吉田町本町 
 愛媛県吉田町の商店街本町通りにある建物が、明治の早い時期に江戸時代の町会所の跡に町人の子弟を教育するためにつくられた「陶成(とうせい)学校」の校舎であったと聞いてたずねてみた。

 陶成学校
 吉田町本町、郵便局のすぐ先の鳥羽酒造の黄漆喰を塗った美しい土壁の先に、横長で総2階、灰色のちょっとお蔵のような建物がある。腰壁が海鼠(なまこ)壁になっていて、建物の左端に大きな木製の扉がある。これが明治の学校「陶成(とうせい)学校」の校舎であった建物であるという。校名にある「陶」という字には学校にふさわしい、「教え導く、教化する」という字義がある。
 本町に住む昭和ひと桁生まれの叔父に聞いた話では、叔父の小さい頃には、その建物はすでに鳥羽酒造の倉庫になっていて、「陶成」という名は御舟手にあった小学校の校名になっていたということだ。しかし叔父は、近郷に住む親戚の年寄り達から、本町にあった学校に通ったことや、そこでは英語なども教わったことなどを聞かされたと、はっきり記憶していた。老人達は、学校のことを話すときは、少しばかり誇らしげであり、懐かしさにたえぬ口振りであったという。
 町人のための小学校
 「吉田町誌」には「陶成学校は、明治、5、6年ころ、町人町、すなわち本町、魚棚、裡町の3ヶ町の旧町会所跡に設置したもので、明治7年に南小路の御船蔵跡へ新築移転、このとき立間尻浦と学区を」統合したとある。
 明治の初め、吉田藩には現在の桜丁、宇和島信用金庫のあたりに寛政6年(1794)に開校した藩校の時観堂があった。こちらは武家のための学校である。陶成学校は明治維新の後に、町人町の人々が、町人の子弟教育のためにつくった小学校であった。
 私は今、吉田で暮らしている。しかし、この本町の建物がかって学校であったということを、つい先頃までまったく聞いたことがなかった。それは、私だけでなく、おそらく吉田に住む人の多くについても同じではないかと思う。町誌を読んでいて、それがほとんど無理のないことであることがわかった。明治初期の学校の変遷があまりに複雑なのである。その原因は、ひとえに明治草創期の地方行政の混乱が大きかったことに尽きるだろう。吉田の町自体の所属にしてからが、明治4年7月吉田県、同11月宇和島県に合併、明治5年6月神山県と改称、明治6年2月神山県と石鉄県が合併した愛媛県に所属とわずかの年月の間に目まぐるしく変化している。学校の変遷、離合集散についてもまた同様であることは言うまでもない。したがって、残された記録が少ない上に、細部には曖昧さや矛盾が多い。陶成学校も何度か形や場所を変えて開かれたり閉じられたりしたようだが、その時期や理由については、完全には明らかでない。
 だから、一般的には、陶成学校の思い出は通った人それぞれの茫々とした記憶の中に封じこめられてしまうしかなかったのではないだろうかと思う。
 愛媛県初の私立高等小学校
 「吉田町誌」に明治13年に町人町の3ケ町(魚棚・本町・裡町)が再び立間尻浦と小学校の学区を分けて、もとの会所跡に戻ったという記述がある。南小路(現在の吉田小学校の場所)に新築した校舎の一部を移し、さらに2階建て1棟の校舎を「副築」して授業を再開したということが書いてある。
 おそらく、本町通りに向かって建っているグレーの2階建てが明治13年に「副築」されたという、その2階建ての校舎なのであろう。内部が間仕切りをして改装され、一時は吉田高校に通う高校生の下宿になっていたため、棟札の確認はされていない。また、どの部分が南小路から持ってきた校舎なのかもよくわからないのだが、町誌の記述に従えば2階建校舎に接続している平屋の部分がそれではないかとも思える。
 「吉田町誌」によれば、現存する、これら旧陶成学校の校舎がいちばん長い期間、継続して使われたのは、明治20年代から30年代にかけて「私立吉田高等小学校」としてであったものと思われる。当時は、義務教育の揺籃期とでもいうべき時代で、今の中学校くらいに当たる高等小学校は1郡に1校、北宇和郡の場合は宇和島町に郡立として設置されただけであった。したがって通学の不便や学校経費分担の不公平感から各地で私立高等小学校の設立の動きが起きた。
 吉田では、明治21年、町内有志の企図が実り、本町2丁目の旧陶成学校跡を校舎にして開校する運びとなった。実はこれが愛媛県下で初めての私立高等小学校であったという。生徒の授業料と町内有志の寄付によって運営したこの学校は翌年、宇和島高等小学校の分校となったものの、すぐに独立し、明治28年には時の吉田町長横田敬止(よしもと)の努力で公立に改組されたりした。しかし、いずれにせよ、私立の高等小学校が愛媛県で初めて吉田町に誕生し、さらに、県下で最も長く継続して運営されたという事実は、当時の吉田町に住む人々の教育に対する志が高かったことの思い出として銘記すべきであろう。
 この学校は明治36年に吉田尋常高等小学校が誕生することで役割を終えるのであるが、先に書いた叔父の記憶などは間違いなくこの時期にこの高等小学校に通った人たちから聞かされた話に違いない。
 最後に昭和初期に吉田に暮らした青年医師小林朝治が残した「陶成学舎」の詩を引用したい。
  「菅公(かんこう)の墨色の校舎は寺子屋。
  そしてまさに
  吉田明治文化史の
  草紙であると物語る。
  そして白墨の白色に校舎は黒板。
  そしてまさに
  吉田昭和文化史への積木であると物語る。……」

 朝治の版画に見る通り、オレンジ色のブロックが敷かれるしばらく前までは、本町通りの校舎の前には溝があって石橋がかかっていたという。墨色の校舎の壁を黒板、海鼠壁の線を白墨といったものであろうか。それにしても、この学校の校舎が吉田明治文化史を物語ると謳い、昭和文化史への積木であると表現した小林朝治の頌詩(しょうし)は今私たちに何を物語るのか。
 町の記憶を喪失することは哀しいことであると思う。

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1996-2012


陶成学校
明治13年以前の建物であろう。アーチ窓が残っていたら宇和町にある重文の開明学校より古い洋風校舎となる。
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中庭から見る。左手の平屋が御船手から移築したものか。

これは当初あった会所の建物ではないだろうか。

この建物の東側には玄関の跡がある。

鳥羽酒造の蔵と建物は江戸時代の建築。



「陶成学舎」小林朝治『吉田風物画帖』所収