過去の連載記事
同じ年の連載記事
- 内子八日市の町並みで -  
第141回 南予グランドツアー 国道378号線自転車紀行 その3
~三瓶~宇和島市吉田~三間~きほく町広見~日吉~西予市城川町~大洲市肱川町~内子町五十崎~内子~大瀬~梅津~砥部町広田~松山市
 
 無事に宇和に到着、歴史の町並み滞在を満喫し、翌日は内子へ二手に分かれて出発した。

 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
健脚組とポタリングコースに分かれる

- 三瓶町皆江 -

 二日目は、二組に分かれて走った。一組は、卯之町の町並み散策後、野村町経 由肱川町の鹿野川ダム湖沿いを走り、五十崎から内子に入る下り中心の約60キロ のコース。いわゆるポタリング組である。もう一組は、約140キロを走る健脚 組。標高160メートルの宇和盆地からトンネルを抜け、一気に海に面した三瓶町 に下り、アップダウンのあるリアス式の海岸を、宇和島市吉田町へ。吉田の陣屋 町を抜け、知永峠を越え、さらに一山越えて三間盆地へ。広見町、日吉村、城川 町(旧町村名)と里山の間を走り、肱川町の鹿野川ダム湖畔の道を通って県道 229号線から内子へ入るコースだ。ポタリング組には宮内が、健脚組には地元に住んでいるのだから道にくわしいだろうということで、私が同行することになった。
 健脚組は私以外、ほんとうの健脚の人たちで、自転車歴も相当のベテランばかりだ。タンデム走行が初めてというお荷物の私が道案内というちぐはぐなことになった。
 健脚組は朝食後、8時過ぎに出発。宇和盆地の中央は田圃で占められていて、家々はほとんど山裾にある。まずまずの晴天の中、田圃の真ん中を抜ける道を真っすぐ西の山に向かって走る。山田を過ぎ、道が上りになって十分も走ると新三瓶トンネル。トンネルを抜けると、後は下りだ。宇和盆地は標高約200メートル。海抜0メートルの三瓶湾までの快適なダウンヒルだ。対向車に気をつけながら、快適なワインディング・ロードをそれぞれが自由に麓の海岸まで走る。八幡浜方面への道との分岐で、隊伍を整え、湾に面したコンビニで氷と水を補給した後、タンデム走行に入る。先頭は、ベテランのIさん。ペースが一定であり、コースと全員の状況を把握しながら、安全のための明確な指示が的確にできる人だ。奥地湾と言われるほど、内陸に入り組んで屈曲する三瓶湾を一路、吉田に向かう。ここからは前回の連載で紹介したコースの逆コースになる。リアス式海岸の典型のような地形のせいで、カーブが連続するだけでなく、標高差が50メートルから200メートル弱までのアップダウンがくり返しやってくる。海と山が迫った景色に変化があるだけでなく、自転車で走るという行為自体の面白さも存分にある道である。苦しい上りを攻めた後は快適な下りが続く。道幅は狭く、絶えず緊張を強いられるが、青い海と複雑な海岸線や段々の蜜柑畑、遠くに見える鬼ケ城連山や宇和海の島々が疲れを忘れさせてくれる。途中で、前回は通り過ごした大崎鼻の灯台に寄り、高山の農協の売店の前で一度休憩、法華津峠と高森山を見上げながら、玉津湾を過ぎ、小さな峠を越えて、昼前に吉田に着いた。

- 吉田町南君港夕景 -

 ここからは私がしばらく先頭を走る。道案内のためだ。「あっ、畦道に入った」という驚きの声を後ろに聞きながら、田圃の中を横切る細い道を抜け、立間川沿いの幅員3メートル弱の「ジョギングコース」に入った。川沿いの車の全く通らぬ道をゆっくりと走る。この道は、小さな吉田の陣屋町の周縁を3キロ近く続く、散歩とジョギングのために整備された道であるが自転車も通行出来る。二条城を摸したデザインの町立図書館を過ぎ、吉田湾の河口手前で大栄橋を渡り、国道56号線に出て、右へ。ここからは少し車が多い。御船手を過ぎ、吉田湾に出て君ヶ浦を過ぎると知永峠である。右手に湾に浮ぶ野島、その向こうの戸島を眺めながら登って行く。トラックも多く、走りやすい道ではないが、十分ほどの我慢である。峠を越えて200メートルほど下り、左折して県道228号線に入る。三間盆地への近道で、一車線、葛折の快適な山道である。木々におおわれた涼しい道を曲がりながら登っていくと、展望が開け、鬼ケ城連山が右手に見える。又林の中に入り、岩肌を見せたままの切通しを過ぎると勾配が少しずつ緩やかになり、平坦になったところに牛小屋がある。そこを過ぎると、下りになる。溜め池にそって、しばらく下って行くと、道幅が広がり、田圃が広がる。

- 三間への県道にある切通し -

 前方に、工事中の高速道路を見てしばらく行くと「道の駅」がある。三間は版画家畦地梅太郎の出身地でこの道の駅には、畦地を記念する小さな美術館があり、復元した工房などもある。 昼食は、バイキング方式のランチを食べた。和洋中華とりまぜ、カボチャの天ぷらなど、三間産の野菜を沢山使った素朴な料理で、量もたっぷり、自転車族にはビッタリのお昼だった。氷や水を補給させてもらい、戦国時代の山城の跡、大森城山の下を通って、きほく町に向かう。JR二名駅を過ぎ、えびす坂を越え、さらに加町坂を上る。加町坂は、処理施設のトラックが通る旧道を避けトンネルを抜けた。後は広見川に突き当たるまで、ほぼ下りである。この道は本連載の 第134回「広見川紀行~三間盆地から善光寺詣で」で紹介したコースだが、いつ通っても、気持ちがせいせいする里山の風景にめぐまれ、下り中心で道幅も広く、もちろん車も少ない。朝からアップダウンの続く、ややきついコースが続き、疲労がたまりかけていたが、昼の休憩とこの下りで元気を取り戻した。

- 南予一の米所、三間盆地 -
こんもりした山は戦国時代末の武将土居清良の城跡大森城。『清良記』全30巻の写本が今日に伝わる。『清良記』は全体としては、軍記物ともいうべき内容であるが、第7巻『親民鑑月集』は、領主の立場から領民に向けた勧農書、日本最古の農書とも言われる。


- 広見町の高鴨神社 -

 広見川沿いの国道に出て、今日は、山沿いの県道ではなく、国道を走る。三島の善光寺を過ぎ、日吉の道の駅「夢産地」で小休止、水と氷を補給する。時間は午後2時が近い。ポタリング組から連絡が入り、既に内子に近づいているとのことだ。私たちも出発。日吉村の町内に入って細い旧道を上がる。この道は、途中に大師堂があり、坂の登りも気のせいか国道よりやさしい。私はいつもこの道を走ることにしている。坂の頂点の西予市との境で国道と合流する。西予市に入るとしばらくは下りが続く、高野子を過ぎると、クアテルメ宝泉坊。温泉には入らず、川沿いに、美しい山村風景を満喫しながら快調に飛ばす。かまぼこ板の絵で知られる美術館が近くにある城川の道の駅を過ぎ、小さな上り下りを繰り返して川沿いの道を進む。

- 鹿野川ダム -
トンネルを避けダム湖に沿って走る。快いアップダウン。
 鹿野川ダム湖の入口、坂戸からは、トンネルを避け、湖沿いの旧道に入る。道は小さなカーブを繰り返し、たまにやってくる対向車には注意が必要だが、とても走りやすい。小さなアップダウンは、下った勢いで登り、又下るといった案配である。ちょっとスキーで谷を振り子のようにターンを繰り返して下るのににている。濃い緑に包まれた静かなダム湖の表面には、所々にカヌーを漕ぐ学生の姿が見える。鉄橋を渡り、篦鮒釣りの宿を過ぎ、さらにダム湖沿いに走って行くと、最後はダムの堰堤の手前で国道と合流する。

- 内子座 -


- 本芳賀邸 -

 国道に出て、小藪温泉への道の入口にある赤い鳥居を過ぎて下ると、5分ほどで肱川の「道の駅」に着く。水を補給してすぐに出発。小田川との合流点まで走って、内子五十崎への県道229号線に入る。この道は、数年前に較べると、川の対岸にも道路工事が進み、護岸が整備されて、自然が失われ、ずいぶん人工的な景観になってしまった。鮎や鰍が獲れにくくなったという話しも聞くが、まだまだ清冽な川の風景が健在で走っているとほっとする。途中においしい河童という名のたこ焼きやさんもある。日吉から約1時間少しで五十崎に着いた。最初の橋で川を渡り、堤防の上の道を走る。内子町役場の所から、少し山の方に入り亀岡酒造に寄る。銘酒「千代の亀」で知られる酒蔵だが、「谷根千」で知られる作家森まゆみの著作『鴎外の坂』を名にした日本酒もつくっている。栗田邸の豪宕な庄屋屋敷や煉瓦の蔵、和紙の雨戸のある村上邸を通って、天神和紙工場を過ぎ、又川沿いの道に戻る。寄道は自転車の特権だ。新しいトンネルには入らず、川沿いの小さな石仏を拝しながら、内子の知清に出た。
今日の宿は内子町八日市護国の町並みの中にある月乃屋旅館である。到着は午後4時半。ポタリング隊は既に宿で寛いでいた。
内子の宿

- 月乃屋旅館 -

 月乃屋旅館は建築家吉田桂二の設計によって民家を修復したたてものである。吉田は内子町八日市護国重要伝統的建造物群保存地区審議会委員をつとめ、内子の町並み保存に深く関わってきた建築家だ。新築の木蝋資料館や収蔵庫の設計を始め、内子の町並みや大瀬などで多くの民家の復元と修復を主導してきた。石畳にある「石畳の宿」も吉田の仕事である。
 月乃屋旅館はきわめて居心地がいい宿だった。なにを置いても、生活の場であった質実な民家の健やかさや、寛ぎが生きていて落ち着いた気分で過ごせるのがいいと思う。食事がおいしい。宿の人たちのもてなしも温かく行き届いていた。建築は昔のままをよく伝えているが、リネン・サプライ、風呂や水廻りの設備などは、スイスの小さな山の宿のように清潔で快適である。もちろん大きな宿ではないから、トイレも共同利用だし、今風からすれば、建物には多少の不便さもそのまま残してある。それがいいと思うのだ。
 自転車で伊予の田舎を走り、内子に来て町並みを見て歩くのなら、見聞きするものも、食べるものも、宿も、過度に地域の個性を演出したものではなく、ごくあたり前のものがふさわしい。今の時代は、根こそぎ、すべてのものを効率や売るための情報に還元してしまった感がある。この宿に泊まると、つつましく、ゆとりのある人間らしい暮らしのもとの形を思い出させてもらったような気持ちがした。工夫を凝らしたごちそうが並んだ夕食を堪能し、ビールを沢山飲んでぐっすりとやすむことができた。

大瀬から広田村
 朝食は、内容は無論だが、配膳の手間を思うと頭が下がるほどおかずの品数が多いのに驚いた。炊き立てで、お櫃で供されたごはんが、とてもおいしかった。今日は走行距離は60キロ弱だが、松山からの飛行機の時間や船の時間があり、空模様も怪しい。

- 月乃屋旅館前で -

 宿のご家族と記念撮影して、9時前に出発。町営の物産販売店「からり」に寄り、巻きずしや菓子パン、お茶など補給食をめいめいが仕入れる。小田川沿いに高速の高架をくぐって山に向かって国道441線を走る。トンネルを二つ抜けて20分ほどで大瀬に入る。原広司の設計した大瀬中学を見た後、橋を渡って、旧道の町並みに入り、ノーベル文学賞を受けた大江健三郎を記念する部屋のある「大瀬の宿」に寄り、生家の前を過ぎて小田に向かう。道は山が迫った谷沿いの国道を快適に飛ばす。大江の小説にも出てくる曽我十郎の首塚を過ぎ、川登を過ぎて、「突合」から松山方向へ左折し国道379号線を行く。この当りで雨が落ちてきた。ほとんどの人が合羽を着用するが私は、面倒なのでそのまま濡れていくことにする。

- 大瀬の館 -

 登りともいえない緩やかな登りが続く。田渡の新田神社が右手に見えてくる。司馬遼太郎『燃えよ剣』に出てくる東京府中の大国魂神社の暗闇祭のような祭りがかつて行われていたという神社だ。新田義貞の三男義宗が祭神。清和源氏の裔ということを意識していたという夏目漱石がかつて訪れて句を残した、お杖椿の伝承がある松山市日浦にある、両新田神社の祭神は同じ新田義宗と脇屋義治である。郷土史家の景浦稚桃が雑誌『伊予史談』に史料を博捜して書いた「新田義宗義治と伊予」には、年代的矛盾が指摘され、両公らが、実際に伊予に来て亡くなったとするには大きな疑義があるとの言及がある。しかし、その稚桃も伊予に義宗を祭神とする新田神社や口碑伝承が多いこと、新田義貞の弟の脇屋義助が今治の国分寺で病没したことをあげて、結論として否定しきるまでの確証もまたないのであると腰が砕けている。この山中にも義宗を神として祀る人がいたということは軽いことではないだろうと思う。論理的に再構成された、学者流の歴史を等閑することもできないが、伊予市にある範頼の墓を漱石にたずねるようすすめた子規が、どこに歴史の宝石が埋もれているかわからないというようなことを書いていたように、人々の記憶や、口碑にはなにかしらの真実が隠されているに違いないと思いたい。

- お遍路さんに出会う道 -


- 突合(つきあわせ)という集落 -
小田と松山の分岐。
 雨に打たれながら、いろいろと役にも立たぬことを考えながらペダルを踏んでいたら、広田村に着いた。旧道を行くと清酒八重垣の酒蔵やえびすや旅館がある。広田の集落を過ぎ、勾配のややきつくなった国道を登っていくと、神の森という厳かな地名にある道の駅についた。四阿で小休止し、バラバラになったグルーブを一度整えることになる。10時半過ぎだ。リュックから巻きずしや稲荷寿司を出して食べていたら、野良猫がやって来た。うちのと同じトラ猫だ。空腹らしい。怖れる様子もなく、みゃーみゃー鳴いて、しきりに自分にも食べさせろと求める。味がついているもので猫の健康には悪かろうが、なんとなく与えてしまった。御稲荷さんをくわえた猫はすぐに繁みの中に消えて行ったが、待ちかまえていたかのように、次のずいぶん汚れた白ぶちの一匹がやってきた。こっちもそうとう腹がひっ迫しているようだ。巻きずしを一つ加えてすぐに消えた。そうこうしているうちに、後続の人たちが集まってきた。猫の残り物のようではあったが、食べきれなかった巻きずしや御稲荷さんをおすそ分けしてから出発。

上尾峠から砥部・松山・道後
 道は峠の名にふさわしく登りがきつくなるが、それほどでではない。標高約430メートルほどの上尾峠を二つのトンネルで越えると、急な下りである。雨で濡れた路面に注意しながら、右に左にカーブしながらどんどん下って行く。あっという間に砥部町の断層の入口に出た。ここでまた後続を待つことにする。11時半過ぎ。雨足は相当に強い。十分ほどでまとまり出発する。いつもなら、五本松のきよし窯や奥の梅山窯によって登り窯を見たり、砥石の採石場の後を見たり、砥部焼伝統産業館に寄ったりするが、今日はもうタイムアウト。国道33号線に出てまっすぐ松山市内をめざすことにする。
 松山駅には12時過ぎに到着。愛媛新聞近くのうどん屋で昼を食べて解散。余裕を持って飛行機や鉄道、フェリーへとそれぞれの帰路に散っていった。私はその日は松山に泊まることにしてすこし用事をすませた後、道後温泉で、冷えた体を暖めることにした。

旅を終わって
 今回の旅は、中予から南予へ巡回する2泊3日のツアーであった。参加人数が14名とやや多く高齢者も多かった。無理は避け、エスケープルートも何通りか考え、いろいろな組み合わせを用意して、臨機応変に無理なく対応できる形を相談しながら進めた。経験や体力を揃え、数名までの旅だと自由が利く範囲が広がるが、そんなグループ旅行はめったに望めない。気が合った仲間同士でというと、どこかにでこぼこが出る。
 今回は、雨にも降られた。途中で疲労困憊して、リタイヤする人も出た。それでも、終わってみると、それなりに楽しめた旅になっていた。南予のやさしい人気と風土が自転車旅行のペースにピッタリだったのだと思う。一昨年、しまなみ海道を走り、今年は南予を走った遠来の人々は、来年は佐渡に行くというが、何人かの人が、時間を見つけて、「とびしま海道」や、「遍路道」を走りに来ると言って帰っていった。

- 道後温泉本館三階で休息 -

 私は最近、南予地方の格下げになった道、たとえばバイパスが出来て廃道に近い存在になった「県道」や「国道」をよく走る。荒れ荒れのところもあるが、地域の人々の力で守られているところもある。どの道も生活道路として、また自然に親しみながら走る自転車道として立派に活用できる道ばかりだ。しかし全体としては、峠がトンネルで忘れられるように、曲がりくねった自然の地形に寄り添った道は、山を削り海を埋めてつくるまっすぐで広い道が出来ると、過疎がひどく進んだ地域のことだから、一気に廃れ、維持管理も行き届かなくなる。法華津峠のような国立公園の景勝地でさえ、西予市側の山が削られて拡幅工事が行われ、その後、舗装されずに放置されて歴史の道が寸断されてしまった。今回の旅では、法華津峠はコースから外さざるを得なかった。歯長峠、高森山、法華津峠、野福峠と三つの峠をトラバースしながら海に下るすばらしいコースは途中自転車を担いで歩いても後悔しないくらい、南予のハイライトともいってよいところだが、今はランドナーやロード・レーサーでツーリングをする人には危険な道である。まして高齢者になにかあっても一度整えた表層が雨で洗われ、ひどく荒れ果ててしまったトラックのための道幅の広い道路では恐くて行けない。歩くのにも適さない。遠来の客人を案内すると、誰もがいちばんといっていいくらい感動した法華津峠は、はなはだ行きにくい場所になり、不法投棄のメッカのようになっている。地域の民度を疑われかねない状態で恥ずかしい。
 南予には、他国の人たちに見せたい風景がまだまだたくさんある。しかし、観光のお宝、売り物として利用し、消費してしまうのではなく、普通の暮らしの場所として守っていくことが大切だろう。そうでなければ、あとにはゴミしか残らない。目先の市場原理で先人たちの慈しんできたものを、私的な財のように使い果たすのは非道ではないか。目立つイベントや花火をした祭りの後は無残なものだと思う。とんだ横道にそれたが、愛媛の南予ほど自転車旅行に向いた風土はそれほど多くはないということを言いたいのが本意である。

 
Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012