第110回 日浦行
松山市日浦
松山中学の英語教師をしていた漱石が吟行に出かけた松山市日浦の円福寺と両新田神社の背後の山裾にある新田義宗や脇屋義治の墓所をたずねてみた。
円福寺へ
漱石全集の俳句・詩歌の巻を開き、漱石が松山で暮らした明治28年から29年にかけての句を逐っていると、松山や近郊の地名が見えて楽しい。漱石は、実に松山をよく歩いている。
わずか1年の間にというべきか、1年の間にというべきか、どちらが適切かわからないが、伊予市上吾川(かみあがわ)の範頼の墓に詣でたり、白猪(しらい)、唐岬(からかい)の滝の観瀑に泊まりがけで出かけたりと郊外への遠出も何度か試みている。奥道後の湧が淵、藤野の円福寺や日浦の脇屋義治と新田義宗の墓所などへ吟行したのもそんな漱石の遠足の1つであろう。
円福寺には、今治への行き帰りに何度か立ち寄ったことがある。本堂にお詣りし、境内にある漱石の句碑を見て、いつも、車を止めさせて貰う参道脇の丸味という食堂でうどんを食べて帰るのが慣わしだ。今はトンネルが出来たおかげで、市内から円福寺まで20分ほどで簡単に行くことができるが、漱石の時代には山に囲まれた石手川の美しい渓谷に沿った道をのんびりと散策しながらの心地よい1日がかりの遠足であったことだろう。
私も1度、車ではなく、漱石が歩いた道を辿ってみようとは思うのだが、なかなか実現しない。今回も又車で来てしまった。
土用のうなぎの旗が立てられた丸味食堂に声をかけて車を止め、ひまわりの咲く参道を通って境内に上がった。
曇り加減だった空が、急に晴れて来て日がじりじりと照り付ける。いつものように、本堂の下にある漱石の句碑を見た。「山寺に太刀を頂く時雨哉」。明治28年12月に子規に送った句稿に見える初冬の句である。
「円福寺新田義宗脇屋義治二公の遺物を観る」という前書きがあり、もう1句、「つめたくも南蛮鉄の具足哉」という句がある。
新田義宗は稲村ヶ崎に剣を投じた新田義貞の息子である。脇屋義治は新田義貞の弟である脇屋義助の息子である。2人は従兄弟同士だった。ともに「宮方」すなわち南朝側について奮戦したが戦い破れ、南北両朝統一の後は、出羽の羽黒山に逃れていたという。それが、遠く離れた伊予の「宮方」の武将を頼り約3ヶ月の月日をかけて少人数の1族郎党とともに、落ちのびてきたそうだ。2人はこの地を安住の地として館を建て、応永年間に病死したといわれる。
(※「新編温泉郡史」の「湯山村」の項にくわしい記述がある。県立図書館で借り出し出来る。)
漱石は時雨が降る初冬の頃に南北朝の伝説の地である日浦を誰かの案内で訪れ、円福寺の庫裡で、太刀と具足などを観たのであろう。当時は屋根が茅葺きであったそうだが瓦葺きになった以外、庫裡の建物は昔のままである。
日浦山
漱石は円福寺での2句に続けて「日浦山二公の墓に謁す」という前書きを付けて「塚1つ大根畑の広さ哉」「応永の昔しなりけり塚の霜」という2句を詠んでいる。この両公のお墓に参ったことがなかったので、円福寺の住職に場所をたずねてみた。位牌や過去帳は円福寺にあるそうだが、墓所は少し先の河中という集落にある両新田神社の背後の桧の林と山裾の畑の中に1つずつあるそうだ。「農協の向かいのガソリンスタンドの裏に車を止める場所がある。そこから、橋を渡って山に上がる道をずっと上がっていけばよい」と親切に教えていただいた。
住職に伺った通り、両新田神社は橋を渡ってほんの少し上がった所にあった。参道の左手に大きな椿の古木があり、小さな説明板がある。地元に、椿の木を杖にしてここまで落ちのびてきた新田義宗が杖を地面に突き立てたまま放置したのが根付いたという口碑があるそうだ。それで「お杖椿」あるいは「新田椿」と呼ばれるという。木の根本に小さな祠といくつかの五輪の塔がひっそりと置かれていた。
神社に上がって賽した後、墓所に向かって山道を登った。コンクリートで固めてあるので足元はわるくない。少し先左手の桧の林の中に1基の五輪の塔がひっそりと立っていた。手をあわせて、さらに少し上がる。勾配が少し急になったかと思うと、林がすぐに切れて山裾の傾斜地に拓かれた広々とした畑に出た。その畑の1番上に石垣で組まれた上に五輪の塔が立っているのが見える。これが漱石が「大根畑の広さ哉」と詠んだ畑であった。畑の中を通る細い道を上がりきって墓に参る。墓の下に立って登ってきた方向を振り返ると漱石の句の風景が大きく広がった。帰りに、下の畑の所にいたおじいさんに聞いてみたら桧の林の中のお墓が新田義宗のお墓で、畑の上にあるのが脇屋義治のお墓であると思うがはっきりしないとのことだった。
青波(あおなみ)の道標
いずれにせよ、よく漱石は日浦までやって来たものだとつくづく感じ入った。今は石手川ダムが出来、今治への国道が開かれたせいで道路やこの辺りの渓谷の風景は当時と大きく隔たってしまった。漱石が句に詠んでいる湧が淵にしても、昔とは、いや私が子供の時分とさえ、ずいぶん違う。ただ、畑や寺の佇まいや山の道はそれほど大きく変わってはいないと思う。帰りに円福寺の住職さんが教えて下さった青波という集落から杉立に抜ける旧道に向かった。ちょうど昔の公民館の前の畑で農作業をしていた男の人に道をたずねると、親切に方向を教えてもらった。杉立を通って軽四のトラックなら湯山まで抜けられるという。しかし、私の車では無理だということだ。あっさりと引き返すことにして、しばらく、昔の青波公民館の前に立っている御影石の道標を見ていた。左天一神社、両新田神社とあり、裏には萬延元年という幕末の年号が刻んである。明治28年にこの道を歩いた漱石もここを通ったのではないか。そしてこの道しるべを見たのではないか。そんな気がして仕方がなかった。やはり次は、漱石が歩いた秋の終わりか初冬の頃にこの道を歩いてみよう。
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