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第47回 漱石の松山
 
愛媛県松山市 
 夏目漱石は明治28年4月、愛媛県尋常中学校の英語教師として親友正岡子規の故郷である四国の松山に赴任した。漱石はわずか1年で松山を去り、熊本の第五高等学校に移っていったが、その1年間のおかげで松山は漱石ファンにとって忘れることのできない土地になった。

 愛松亭
 2月の終わりに、松山の漱石の下宿の跡や少年時代の子規が住んだ家の跡などを思いつくままに歩いた。
 歩きはじめは1番町、城山の麓にある県立美術館分館の萬翠荘。旧藩主久松定謨(ひさまつさだこと)が大正11年に建てた別邸で、ルネサンス風の洋館である。
 定謨は子規と同年、フランスに留学した後、フランス公使館の駐在武官にもなったが、留学のときには子規が物心両面でもっとも大きな援助と影響を受けた叔父加藤拓川が定謨に同行するなど、子規との縁が深い人でもあった。その萬翠荘には、松山時代に漱石が暮らした下宿が2つともある。
 電車通りから裁判所の脇の道に入り、城山の中腹の木の間に見え隠れする萬翠荘の尖がった屋根を見ながら、洒落た門衛小屋を通り過ぎる。きちんと剪定(せんてい)された松の木や植え込みの間の舗装された道をしばらく登っていくと、城山の緑につつまれるように漱石の松山での最初の下宿「愛松亭跡」の碑が見えてくる。明治28年4月9日、松山に着いた漱石は一旦、2番町の城戸屋旅館に旅装を解いた。そしてその数日後に前任の英語教師カメロン・ジョンスンも住んだこの下宿屋愛松亭に居を定めたのである。
 漱石は明治28年5月10日の狩野亨吉(かのうこうきち)(四高教授、一高校長などを歴任)あての書簡に「目下愛松亭と申す城山の山腹に居を卜し終日昏々(こんこん)俗流と打混(うちこん)じ居候(おりそうろう)……」と書き、また5月26日には、日清戦争の従軍記者として赴いた戦地で結核の病勢が昂じて帰国し、神戸県立病院に入院していた子規に「当地の人間随分小理屈を云ふ処(ところ)のよし宿屋下宿屋……不親切なるが如し大兄の生国(しょうごく)を悪く云(いう)ては済まず失敬々々/道後へは当地に来てより3回入湯にまいり候 小生宿舎は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地……」などと近況を書き送っている。
 松山に暮らしてわずか1月余りの漱石は、子規に送った書簡の中で、しつこい田舎の人付合いに疲れ、師も友もおらず、読書するか結婚するか放蕩するかしないともう我慢できないなどという自棄的な口吻をもらしている。
 愛松亭の主人は『坊っちゃん』のいか銀のモデルとされる骨董商だったから、環境はともかく居心地はあまり心地よいものではなかったに違いない。そして下宿料も外人教師が入っていたくらいだから安くはなかった。
 というわけで、勤め先に近く、環境抜群の愛松亭に2ヶ月暮らした漱石は、城山を下って、町中の上野家に引っ越すことになる。
 愚陀仏庵
 その上野家の離れの木造2階建てが漱石の2度目の下宿「愚陀仏庵」である。そこに、
 神戸須磨での療養生活の後、小康を得て帰省した子規が、漱石の誘いに応えて、いきなり同居するのである。子規は以後、再上京するまでの50日余りを漱石の下宿で送り、連夜の運座(うんざ)を開いた。漱石ももちろん運座の連中(れんじゅう)に加わることとなった。
 漱石と子規が暮らした、ほんとうの愚陀仏庵は三越百貨店の近くの、今は「天平」という天ぷら屋が建っている場所にあったが、戦災で失われてしまった。しかし、漱石と子規を敬愛する松山の人々によって、昔の写真や図面をもとに、ほぼ元どおりの愚陀仏庵が、萬翠荘の裏手の林の中に復元されたのであった。 われわれは、そのおかげで萬翠荘に来ると、漱石の松山時代の下宿を2つとも見ることができるようになったのである。
 私は、静かな城山の山中に新しくつくられたこの愚陀仏庵がとても気に入っている。庭石や前栽の雰囲気まで元の愚陀仏庵の古い写真に似せてあって縁側に腰掛けると、ここに同居した漱石と子規のことがあれこれと思われてくる。
 親友
 漱石と子規が交友を結んだのは明治22年の1月のことであった。気付かぬ内に胸を病み5月に喀血した子規が「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」という句を詠んで子規という名を使いはじめた頃、漱石は共通の友人である米山保三郎らと本郷真砂(ほんごうまさご)町にあった松山出身者の学寮「常盤会宿舎」に子規を見舞い「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)」「聞かふとて誰も待たぬに時鳥」の2句をしたためた真情のこもった書簡を送った。
 政治家志望であった子規が胸を病んで、理想と野心のすべてを、もはや書くということの可能性に賭けるほかない場所に追いつめられたとき、子規は、自分の和漢詩文集『七艸集(しちそうしゅう)』を漱石に見せる。漱石がはじめて「漱石」という雅号を使ったのはこの若い子規の書に加えた漢文の評においてであった。そして、若い漱石もまた自らの漢詩文『木屑録(ぼくせいろく)』を子規に見せる。子規はその評に「独り漱石は長ぜざる所なく達せざる所なし」と書き漱石の漢詩文に自分より1日の長があることを認めた。
 出自も性向も思想も異なる2人は、辛辣で遠慮のない応酬を続けながら文学の友としての友情を深め、親友という言葉が空疎に響かぬ間柄になったのである。
 子規の故郷
 松山は漱石にとって、畢竟(ひっきょう)、親友子規の松山であったと思う。
 漱石は学生時代の明治25年、帰省する子規と一緒に京都に行き柊屋(ひいらぎや)に泊まった。そして、いったん子規と別れて岡山に行き、金毘羅参りをした後、一足先に松山に帰っていた子規を訪ねた。そのときはじめて子規の家で漱石と出会い、子規の母がこしらえた五目寿司を2人と一緒に食べた虚子は「その席上でどんな話があったか、全く私の記憶には残って居(お)らぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓(まつやまずし)の皿を取り上げて1粒もこぼさぬ様に行儀正しくそれを食べるのであつた。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった」(高浜虚子「漱石氏と私」)と書いている。
 そのときの漱石は友人の故郷で過ごした快い思い出以外、松山になんの屈折した感情も持たなかったに違いない。
 漱石の中学校の英語教師としての2度目の松山行きにどのような事情があったにせよ、また1年間の松山滞在中になにがあったにせよ、漱石にとっての松山は、親友子規とともにあった時間がすべてだったのではないだろうか。
 子規が東京に去った後も漱石は根岸の子規にせっせと句稿を送り続けている。
 私は、新しい愚陀仏庵から町中に戻り、城戸屋の前を通って中の川通りに出た。通りの真ん中を走る水路と子規居宅の碑以外に昔をしのばせるものはない。昔は、この水路に石橋がかかった小さな武家屋敷が並んでいたという。少年時代の子規が住んだ家も、漱石が学生のときに訪ねた、子規の母と妹が住んだ家もそんな家であったそうだ。
 私は、 踏み切りを渡って正宗寺の子規堂を訪ね、境内に残された子規の勉強部屋を見た後、漱石と子規が散策した道後方面に向かうことにした。

〈参考〉
江藤淳『漱石とその時代第一部』荒正人『漱石研究年表』粟津則雄『正岡子規』『漱石全集22巻』・『子規と周辺の人々』和田茂樹編・『評伝正岡子規』柴田宵曲

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1996-2012


明教館
漱石が教えた愛媛県尋常中学校時代の現存する唯一の建物。松山東高校に移築されている。16歳の子規は初めて上京する前日にこの建物で一場の演説を行った。

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萬翠荘内部
城山の山腹、愛松亭のある敷地に大正11年に建てられた旧藩主久松定謨の別邸。設計は愛媛県庁を設計した木子七郎。鉄筋コンクリート3階建、地下1階。フランス帰りの定謨の趣味か、1階の主室の内装は豊かなロココ調である。


愛松亭跡。漱石の松山での最初の下宿、骨董商津田保吉が経営。城山の麓、松山藩家老の屋敷跡で現在の松山市1番町萬翠荘の敷地内。津田は「坊っちゃん」のいか銀のモデルに擬せられている。

愚陀仏庵跡
漱石の2番目の下宿、愚陀仏庵は2番町のこの場所にあった。


子規住居跡。中の川通りにある。2歳から16歳までの少年時代を過ごした家の跡。「くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」の歌碑がある。

子規の上京後に、母と妹が住んだ家の跡。同じ中の川通りの市駅よりにある。漱石が学生時代に訪れた家。

子規の父の墓があった法龍寺跡。明治28年日清戦争従軍前に墓参した子規は、荒れ果てた風景に衝撃を受け「畑打よここらあたりは打ち残せ」と詠んだ。



宝厳寺前の元遊郭の建物
明治28年10月6日、東上を前にした子規と漱石は宝厳寺を訪れた。子規に「色里や10歩離れて秋の風」の句があるとおり、山門のすぐ前が松ケ枝町遊郭の跡。


漱石と子規も訪れた道後温泉本館3階