第99回 蔵澤を歩く
松山市本町5丁目大法寺
吉田蔵澤は江戸後期の伊予松山藩士。生涯、墨竹を描き続けた画家として知られる。子規が愛し、漱石がその魅力のとりこになった蔵澤の墓をたずねてみた。
墨竹の画人
松山地方では、今でも家宝として蔵澤の遺墨を秘蔵する家が多いと言われる。地元では、蔵澤を知らぬ人の方が少ないのに違いないが、私が蔵澤の名を知ったのは偶然のことに過ぎない。岩波書店の会長を務めた小林勇が親友であった松山出身の画家柳瀬正夢のことを書いた「ねじ釘の画家」(『小林勇文集第八巻』1983年筑摩書房刊に所収)という美しい文章を読んだ。そうしたら、たまたま、その巻が書画についての文章を集めた巻で、そこに小林が選んだ「日本文人画10選」というのが収められていた。小林は自分が好きな文人画の1番目に松山出身の蔵澤の竹図を選んでいたのである。柳瀬正夢を追慕する小林の文章のさわやかな読後感が後を引いたせいか、小林の蔵澤についての傾倒ぶりに強く影響された。しばらくして、小林が座右に置いたという『墨美』という雑誌の蔵澤特集号を古書店から取り寄せた。休日に久万美術館に出かけて蔵澤の墨竹画の屏風を見た。求龍堂の画集も買った。県立図書館に出かけ、雑誌『伊予史談』にあった内藤鳴雪の「吉田蔵澤逸話」も見た。鳴雪の曾祖母は蔵澤の娘であり、鳴雪は曾祖母から直に、蔵澤の日々のエピソードを聞き、記憶にとどめていたのである。
清廉剛直の人
吉田蔵澤は、名を良香、字を子馨、通称は弥三郎といい、後に吉田家の世襲の名、久太夫を名乗った。享保7年(1722年)松山藩士の物頭格馬廻り160石の家の長男に生まれた。父が藩の要職を務めていたためではあるが、初出仕は42歳と大変遅かった。そのために、蔵澤は部屋住の自由で恵まれた環境の中で青春時代を送ることができたという。蔵澤はこの自由な暮らしの中で、画業は言うに及ばず、名手として知られた楽焼きの基礎をおぼえ、詩文に対する教養を高めたのである。封建の世にあっては、やや奇矯とも思われるほど、正義感の強い自由人蔵澤の生き方が育まれたのもこの部屋住みの時代が大きく与っていたに違いない。
出仕後の蔵澤は、風早郡(現北条市)の代官から始めて実績を重ね、60歳になった時に藩の中央政治に参画した。63歳の時には物頭に昇進し、200石に加増された。蔵澤の正直で佶屈な性格にもかかわらず、宮仕えは順調であった。しかし、ほぼ大過なく晩年を迎えるかに見えた寛政11年、喜寿を迎えた蔵澤に突然破局がおとずれる。蔵澤は、ある事件に連座し、過度な正義感と血気が災いして、突然隠居を命じられるのである。結果、蔵澤隠居後の跡継は、碌を一気に80俵に減じられてしまう。
ところがというべきか、当然と言うべきか、彼の画業は世俗的な悲運に出遭ったこの時期から後に、さらに円熟を深めたといわれれる。
蔵澤は享和2年(1803年)81歳で没した。墓は松山市魚町(本町5丁目)の日蓮宗大法寺にある。蔵澤の裔は男子が一時途絶えたが、会津藩の上坂家から養子を取り、後に江戸詰となった。維新の際にはそのまま脱藩し、上野の彰義隊に投じた、戦い敗れた後に伊予に戻って、蔵澤ゆかりの風早郡に郷居した。さらに、その子孫は後に東京に移住したという。
内藤鳴雪翁が語った蔵澤の娘である曾祖母から聞いた蔵澤についての談話から2つ、蔵澤とほぼ同時代に書かれた「却睡草(ねざましぐざ)」から人物評とエピソードを1つ引用しておこう。
「蔵澤は多くは呑まぬが酒が好きであった。亦食道楽であった、毎年寒中多くの鯉を求めて煮こごりを作るを例として居った。自ら好んでこれを食ひ、来客にも喜んで之を出して饗した。煮こごりは、数箇の白き鉢に入れて棚に置、寒気に触れしめてその煮汁とともに氷らすのである。この鉢の中の1ケは余が家にも残り居て漬け物入れとして居る。」
「蔵澤は資性剛毅純正、弱きを助け、強きを挫き、民情を洞察し、秕政(ひせい)(※まちがった行政)を匡正(きょうせい)すると云うやり方であった、故に上司に重用されず、同僚に嫌忌された(※嫌われた)が、一般民衆よりは頗(すこぶ)る敬愛されたと云う。」
(「吉田蔵澤逸話」伊予史談11巻第2号大正14年刊より)
「禅学を能す名士にして、甚だ奇行多し、70余にして落歯の再び生ぜしむる程の健康なる翁なり。唐画の墨竹を好み、その妙なること神に入れり。其の才量は豊かなれども、性質深刻なり。風流雅情、人に秀でたる所ありといえども、我意もまた少なからず、尤も無欲なり。」
「(蔵澤は)又、武を好めども、具足始め武具の風入れをせず。人、その訳を問えば、答えて云う。兵は凶器なり。我らが野道具(松山地方では、葬儀の時に使う器具を野道具という)なれば、恒に出すことは忌々しきなり。故に押し込めおくなり。これを出して着用する時は再び生きて帰らぬの志故に、かくは云はるるなり。又、刀のさびたるを研がず。此にて突かば、敵は別て痛み堪えがたく弱るべし、とぞ。すべてかようの奇妙なる分別なり」
蔵澤は、くせ(個性)が強く、我が強い人であった。自分でも個性こそが人間の器量であって、個性がない人間は器量のない、役に立たない者と考えていたふしがある。無欲で恬淡、おいしいものが好き。直言と向こう傷を恐れず、藩の行政官としては庶民の暮らし向きを第1に考えて正直に行動したから、弱者に慕われた。
漱石と蔵澤
子規は根岸庵の床の常掛にした。友人の漱石も松山で見て以来、蔵澤の墨竹を欲しくてたまらなくなった。伝えられる蔵澤の自由で無欲、剛直な人柄に加えて、もしかしたら子孫が会津から養子を取ったことや脱藩して彰義隊に入ったことなども漱石の蔵澤への親近感を増したかも知れない。そういえば、「坊っちゃん」の山嵐は会津の出身だった。
漱石が実際に蔵澤の墨竹図を得たのは明治43年11月5日のことである。漱石が、伊豆の修善寺の大患の後に帰京して、胃腸病院に入院中、子規の幼なじみで、松山市余戸出身の森円月が見舞いにやってくる。森円月は本名次太郎、同志社からエール大学に進み、松山中学の教師をした後、『東洋協会雑誌』の編集者をしていた。子規、漱石の3歳年少で、漱石とは、書画の付き合いがあった。当日の漱石の日記に
「森円月来る。疲労を言訳にして不会。1時間程して小使い手紙をもって来る。蔵澤の墨竹の軸を添う。お見舞いともお土産ともいたし進呈すとあり、早速床にかく。病院に入ったら好い花瓶と好い懸物が欲しいと云っていたら、偶然にも森円月が蔵澤の竹をくれる。禎次が花瓶をくれるという報知をする。人間万事こう思うように行けばありがたいものである」などとある。漱石はすぐに、会わずに帰した円月に「大驚喜」という礼状を返し、さらに1週間後の12日、蔵澤の竹を病院の壁に掛けて毎日眺め暮らしているが、
「先ず家に帰りたるときの光景とお思いくださるべく候」と書いて
「蔵澤の竹を得てより露の庵」という句を短冊にして円月におくった。
漱石はほんとうに蔵澤が好きだったのだろう。この後も円月を通じて蔵澤の墨竹を入手しそれを手本にして自らも竹を描いている。夏目鏡子の「漱石の思い出」に
「良寛のほかに好きで集めた物に、といって3、4点位ずつの物ですが、それに伊予の明月上人と蔵澤とがございます。2つとも松山出身の森円月さんが持って来られて、夏目に字を書かせてお礼に寄せられたのが元で、自分でも所望して手に入れたようでした。殊に蔵澤の墨竹は大変珍重しまして、自分でもそれを手本に竹を描くというので、毛氈の上に紙を広げて、尻を端折って一気に墨痕凛漓と勢いよく描き上げようと云うので大騒動でした。…この蔵澤張りの墨竹をやたらに描いた時代がございます。」
漱石が愛した蔵澤の墨竹の画は愛媛県立美術館や久万美術館、愛媛大学図書館などに収蔵されている。私がふらっと出かけて、展示されていたのは久万美術館だけだった。蔵澤の竹は年代によってそれぞれ、味わいが異なると言われる。とくに70才を越えてからの作品の竹の姿には、自由で、孤独感をたたえた、強く、深い味わいがあるという。涼しくなったら、また久万美術館に出かけてみたいと思う。
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