第84回 古学堂訪問記
大洲市阿蔵
大洲市阿蔵の大洲八幡宮の社家常磐井家には、江戸の貞享、元禄、(17世紀末)の時代から明治初めまで約200年間続いた私塾「古学堂」があった。今も学室の1部や文庫が健在であると聞き、6月初めの日曜日にたずねてみた。
古学堂へ
台風が通り過ぎて行った日曜日の朝であった。国道56号線、大洲市五郎の橋を渡り肱川に沿って八幡浜の方に向かって走った。正面に肱川を渡るJRの鉄橋が見え、その向こうに再建中の大洲城天守閣を覆った倉庫のような仮設の建物が見え始めたあたりで、右手の山裾の道に入った。小さな川に沿ってすこし走るとすぐに、右手にJRの線路の盛土が見え、八幡宮の入り口の石柱が見えた。線路の手前の空地に車を止めて、線路の土手にあがり、小さな踏切を渡ると八幡宮の参道である。その参道のすぐ左手下に、紅葉の若葉につつまれるように、石垣を積んだ上に建つ小さいが簡素で美しい建物があった。古学堂跡という小さな石碑の隣に立つ案内板を見ると、手前の寄せ棟の2階建てが文庫の建物で、その左手の連子格子のある建物が昔の学室の一部であるようだ。参道の少し先にある入口から緑に囲まれた小径を「古学堂」の建物に下って、呼鈴を押した。
少し前に、『大洲、肱川の畔にて 古学堂を守り続けた一家の物語』常磐井忠香著(アトラス出版)という本を読んだ。大洲領総鎮守大洲八幡宮に嫁いだ女性の半生の物語である。ご主人や娘さんの早世という悲しいできごとを乗りこえ、教師として、子供たちを育てながら、戦中戦後の混乱期を通じて、婚家を守ってきた来し方が淡々と綴ってある。読むと、なぜ、古学堂の建物や貴重な書籍や古文書が、今もなお、ここに残ってあるのかということが身にしみる本である。著者の常磐井忠香さんは、古学堂の建物で暮らしておられるとのことであった。
しばらく玄関の前で待っていたが、一向に応答がない。引き返そうと表へ出たら下の畑で玉葱を掘っている常磐井さんの姿が見えた。
「古学堂」は江戸時代の中葉に、藩内外の神職の子弟を養成するために社家常磐井家の当主が塾長を務める家塾として出発したという。塾が八幡宮へ上る坂道の参道の下にあったので初めは「坂本塾」と呼ばれていたそうだ。この塾が次第に神職だけでなく、郷党の庶民を教育する私塾としての役割を担うようになる。寛延3年(1750年)には文庫(付属図書館)が設けられた。今も「六国史」や「古事記」、「古語拾遺」、塙保己一編纂の『群書類従』『続群書類従』等3,000余冊の貴重な古典籍が伝えられているが、これらの蔵書が学問を志す者には、封建の世にありながら、士庶の身分を問わず自由に利用できたそうだ。天明元年(1781年)からは、10年計画で学室が整備され塾はますます隆盛を極める。
常磐井厳戈
幕末に塾生を指導した常磐井厳戈の時代には寄宿する学生たちの米のとぎ汁で、塾に隣接した水田の水が白濁するまでになったという。今に伝わる「古学堂」という名も厳戈が付けたものである。厳戈は本居宣長の後継者を自任した平田篤胤の学問に帰依し、古神道の本義を明らかにするということを塾の基本にしていた。簡単に考えると、幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた平田の学問を好んだのだから攘夷論者になっても当然という気がする。しかし厳戈の学問的関心は国学から儒学、洋学に及ぶ広範囲なもので、教育者としても弟子たちの進むべき道に対して知的寛容さを持っていた。その事実を示すかのように、厳戈の交友関係や弟子たちの顔ぶれは1つの枠におさまるものではない。厳戈は高野長英、村田蔵六、高杉晋作、神官で幕末に種痘の普及に協力した今治藩医の半井梧庵らと交わり、弟子にはシーボルトの弟子二宮敬作の甥で自らもシーボルトの弟子となり孫娘の高子を娶った洋医学者三瀬諸淵、黒竜江を探検したり、函館の五稜郭を設計した武田成章、書家の三輪田米山らがいた。三瀬諸淵は、厳戈と一緒に古学堂の学室の窓と、肱川を隔てた冨士山の麓を結んで日本で最初の電信実験を行った。武田成章は、古学堂を巣立ち、適塾で緒方洪庵に、さらに伊東玄朴、佐久間象山、箕作阮甫らに師事し、総合的学問構想を持った(レオナルド・ダヴィンチのようだと評した人もいる)教育者となったが、常に師の厳戈を忘れず、地球儀の形をした世界地図を師に送り届けたりしている。
豊かなるもの
学室で、常磐井忠香さんから、弟子の三瀬諸淵を思いながら厳戈が書いたオランダ語の美しい筆記体や、武田成章が厳戈に届けた世界地図を見せていただきながらお話を聞くことが出来たのは望外のことであった。そのときに、強く感じたことがある。それは、厳戈も学生たちも教えること、学ぶことについて強い自主性を持っていたと言うことである。彼らは幕末という動乱の時代環境の中にあった。決して経済的にも恵まれていたわけではない。しかし、驚くほど他者に寛容であり、自主性に富んでいて、自らの信念に対して正直であった。厳戈と弟子たちは、何れの道を歩んだとしても人間として深い信頼関係に結ばれていたのだという気がしたのである。
「古学堂から出た人は、薩摩や長州の人たちのように自分を押し出すことができなかったから、余り地元でも知られてないんです。武田成章などは大洲よりも函館の方が知られているかもしれませんよ」と忠香さんが言われた。たとえ知られようと知られまいと一顧だにしなかった人たちだからもって瞑すべしか。それにしても古学堂は、なんと豊かな存在であることだろう。
現代は、不況が続くとはいいながら、当時に比較すれば遙かに恵まれた時代であるに違いない。参道に出て肱川ごしに、壕を埋めた城郭に天守閣を再建中の大洲城の方を眺めながら、今の時代の豊かさの質というものを思わずにはいられなかった。古学堂の別名に「青柴垣」というのがある。緑につつまれた塾の風景に因む名と言う。後ろを振りかえると深い緑に覆われた質朴な文庫の佇まいが、ひときわ好ましく思えてしかたがなかった。
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