第11回 思い出の製糸工場
鬼北盆地のほぼ中央、山々に囲まれた北宇和郡広見町延川に、昭和12年から平成5年まで操業を続けた製糸工場が立っている。国道320号線から広見川を隔てて対岸に見えるチョコレート色の工場は、洋風、下見板張りの外壁で、ガラス窓の枠が白いペンキで塗られている。屋根の向こうには赤茶色の煉瓦で積んだ煙突が見える。年を経て落ち着いた色合いが、澄んだ空と周囲の山々にすっかりとけ込んでいる。最盛期にはこの工場で、120人もの女子職員が寄宿して働いていた。
世界恐慌の中で
昭和12年3月15日に完成したこの工場は、愛三製糸聯合会の新工場として広見町久保にお住まいの酒井要さんが中心になって建設したものである。
酒井さんは、明治37年7月2日生まれ、数えで94歳。歴史は繰り返すというが、矍鑠として酒井さんが語られた建設当時のお話は、バブル経済の後遺症に喘ぐ、現代日本経済に通じるところがあった。
昭和5年、前年に始まった世界恐慌が日本に暗い影を落とし始めていた。酒井さんの故郷三島村でも三島産業組合(現在の農協のようなもの。明治時代に中小生産者の保護育成のために制定された産業組合法による社団法人。農村で発達)が莫大な貸付金を焦げ付かせ、重大な危機に直面した。不正融資事件なども明るみに出て役員が全員辞任する異常事態となり、組合員は預貯金の急激な引き出しを始めた。このときに、誰1人として、引き受け手の無かった組合長に推されたのが26歳になったばかりの酒井さんだった。県立松山農学校を卒業後、故郷の三島村で産業技手や愛媛県農林技手として活躍されていたのを周囲から見込まれてしまったのである。酒井さんは、松山農学校時代の恩師菅菊太郎が産業組合法の起案者であったこともあり、産業組合の運営には強い信念と理想をもっていた。
酒井さんは、「役職員共に村の公僕たれ、忠僕たれ」を組合のモットーにして、就任するとすぐに、生産地で出来る加工は生産地で行い、生み出された利益は生産者が得るという考えを実行にうつした。
組合製糸の創業
組合長になって1年が過ぎた昭和6年、酒井さんは三島村の主要産業である養蚕を生かし、組合製糸を創業する。資金の2,0000円は自分の水田2町歩を抵当に入れて調達した。小松の町中にあった担保流れの古い小さな工場で旧式の座繰式、わずか30釜繰糸での始まりだった。その組合製糸が見事に成功した。生糸相場の高騰に恵まれるという幸運も重なり、大きな利益を生み出したのである。当時、三島村で生産される繭は35,000貫。初年度はそのうち8,000貫の繭しか組合に入ってこなかったが、好調な滑り出しを見て翌昭和7年には、三島村の繭のほとんどが組合に集まった。隣村の愛慈村も組合製糸に参加し、委託加工の繭が持ち込まれるようになった。その年は、下大野にあった工場を新たに借りて一挙に160釜繰糸に拡大した。両工場とも座繰式の古く小さな工場だったが、生糸の査定引きをして繭の評価基準をはっきりさせるなど品質向上への努力を続けたので業績は着実に延びた。
新工場は「実践女学校」
昭和11年には、愛慈村の製糸組合と合併し愛三組合製糸連合会が結成され、国の組合製糸整備改善助成金を得て新工場が建設されることが決まった。基本設計はもちろん酒井さんが行った。繰糸場、煮繭場、揚返場、寄宿舎など建物の形に馬糞紙を切ってレイアウトを幾通りも考え、松山の田村建築設計と共同で最終案を作成した。寄宿舎は職場から切り離して川縁の見晴らしのよい場所に、食堂や、風呂、炊事場なども120名の女子職員(酒井さんは女子職員と呼び女工という呼び方を厳しく禁じていた)が快適に過ごせるように配慮した。女子職員は、高等小学校卒の年令は14、5歳の少女たちが中心だった。寄宿舎と渡り廊下で結んだ管理事務所の2階には広い和室があり、床の間があった。毎朝そこで朝礼を行い、余暇の時間には、先生が来て、茶道を教えたり、洋裁を教えたりもした。もちろん勉強も教えた。「僕がスクールマスターになって、良妻賢母をつくるんじゃいうてがんばったんです。ここは働きながら学ぶ実践女学校じゃ言うとった。宇和島の女学校なんぞ行かすよりなんぼかいいという評判で三島村と愛治村以外からも就職希望者がありました」と酒井さんは語る。新築なった工場はますます業績をのばした。昭和15年には酒井さんが組合長に就任したときにあった県信用聯合会からの75,000円という巨額の借金を完済することができた。
思い出の工場
小松工場時代からずっと愛三製糸で働き続け、今も工場の背後の山手に住む岩本マサミさんに伺った。「お茶もお花も和裁も洋裁も、勉強も教えてもらいました。後のほうには隣に定時制も出来て、夜は学校があるのがみんな楽しみじゃった」。寄宿舎は10人が1部屋。真ん中に向けて布団を5組ずつ向かい合わせに敷いてやすんだ。20歳くらいの年かさの室長さんがみんなの生活の面倒をみた。職場には「教婦」さんがいて仕事の手順を教えてくれたそうだ。「酒井さんがね。年が若い者にも自分の方からおはよう、ごくろうさん言うて挨拶してくれてね。気持ちが晴れ晴れしましたよ。ほとんどが女子ばっかりじゃからね。門でちゃんと出入りを見て、寄宿舎には男の人は絶対入れさせんかった」。食事について聞いてみた。「炊事婦さんが4人いました。野菜の煮物とか、田舎の普通のものですがちゃんと出とりました。そりゃあ、戦争の頃はお芋だけのときもありましたけど。みんなおなかがすいたら家に帰っておにぎりを食べたりしよりましたね」。女子職員の休みは月の1日と15日のわずか2日。生活のすべてが、この工場と共にあったといえよう。労働条件は極めて厳しく見える。しかし、今日と単純な比較はできない。当時の時代環境、農村の様子などを考慮しなければならないだろう。岩本さんは工場が解体されると聞き、少し前に頼んで中を見せてもらったそうだ。「毎日、外から見てしゃんとしとると思うとったけど、中が荒れとるんでびっくりしました。思い出がいっぱいあるけん、のうなると思うとほんとうに淋しいわい。なんとかならんもんじゃろうか」と言われる。別れ際に「あんた、なんとかしなさいや」と言われた。
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