- 旧清満郵便局(前旧岩淵郵便局と誤記) -
第144回 藤岡蔵六の故郷 追記
宇和島市津島町岩淵
6月6日の午後、岩淵を再訪した。もう一度、岩淵の集落の様子を見ておきたいと思ったからである。新しい岩松橋を渡って左に曲がり、三島神社の前を通り過ぎ、少し先で、左手の宿毛街道に出た。
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岩淵再訪
- .金峰神社 -
- 藤岡春叢の洋館の医院と邸があった岡村家(左) -
6月6日の午後、
岩淵を再訪した。もう一度、岩淵の集落の様子を見ておきたいと思ったからである。新しい岩松橋を渡って左に曲がり、三島神社の前を通り過ぎ、少し先で、左手の宿毛街道に出た。上槙へ通じる県道との交差点を過ぎ、右手に満願寺を見ながら、トンネルの手前で藤岡蔵六の生家址のある旧道に入った。ほんのすこし入った右手に金峰神社の参道があり、そのすぐ先が3月に『二重柿の里』をいただいた川口一夫さんのお宅である。車が停っていたので、声を掛けると御在宅であった。先日のお礼を申し上げ、川口さんの向かいの岡村さんというお家の敷地が、藤岡春叢の医院の洋館と邸が建っていた場所であることを教わった。金峰神社は明治の合祀で、その時に名前が出来た神社とのことで、拝殿の裏手から上がった山の入口には、闘牛の土俵があったこともうかがった。元清満郵便局の建物がある、表通りから一本入った道には紺屋であった家や倉など、年経た建物が多く残っていた。
父母の思い出とともに
- 岩淵から岩松川の向こうに譲リ葉森 -
- 満願寺夕景 -
- 岩淵のメインストリート -
後ろ姿は川口さん。
表通りに戻り、川に出て、譲ヶ葉山や、すぐ先の宇和島藩の武士が開拓して出来た家紋が伊達家の家紋と重なる集落などについて伺った。帰りに蔵六の長男で、「父と子」を上梓された藤岡眞佐夫氏の著になる「父母の思い出とともに」を貸していただいた。
帰宅して、早速拝読させていただいたが、蔵六の甲南高校時代が教育者として充実した日々であり、暮らしも物心ともに豊かであったこと、病気に苦しんだ20年に及ぶ日々にも、照る日曇る日が当然のようにあったことなどが、眞佐夫氏の人生の歩みとともに綴られていた。
眞佐夫氏は、蔵六の三十三回忌の時に、和辻とも親交があり、岩波にも近かった安倍能成に序文を依頼したという。安倍は、蔵六の『父と子』を読んで、「蔵六君はむしろ頭のそう敏感でない、全く律儀一辺の人であって、前に誤解していた立身出世主義者(ドイツ語でシュトレーバーstreber)という所が一つも遺文に見えないこと、また蔵六君の父春叢さんが医は仁術なりに徹した人」であることに感じ、「父と子」を出版する暁には載せるようにと序文を書いて寄こし、その文中に「蔵六君を立身出世主義者として多少でも憎んだり、その立身の思うよういかなかったことを気味がよかったと思ったことを、むしろ恥ずかしく思い、蔵六君の偽らぬこの父君の記録を、文学者的の気取りや浮華のないことによって、一層貴いドキュメントとして讃美したいことを告白する」と書いたということである。蔵六をただの点取り虫と誤解して軽侮し、その栄達が蹉跌したことを快く感じたと正直に告白するところは安倍らしいと思う。安倍は、自分は宗教と道徳の関係について蔵六君と同じ境地にあるものとも書いているそうだが、なぜか、安倍の序文は『父と子』には掲載されていない。年少の亡友和辻の遠い過去の恥をさらすことを慮って意を翻したのであろうか。
『父母の思い出とともに』には、蔵六の父春叢のフロックコートを着た写真や、甲南高校時代の家族の写真、眞佐夫氏が満願寺の藤岡家の墓所を改修され、蔵六の遺品を春叢の墓所の脇に埋め蔵六の墓標を立てて供養した時の写真なども掲載されている。
また、蔵六が旧伊方町の佐々木長治氏より、一高時代から奨学金を得ていたこと、長い、闘病生活の中で困窮が極まった際に、蔵六が佐々木長治氏(同名の息子。後述)を訪ね眞佐夫氏の学資の援助を仰いだこと、宇和島中学の先輩で、当時文部大臣の松浦鎮次郎に就職の世話を頼んだことなども記されている。
- 裏通り -
障子の家も医院だったという。
- 闘牛場が民家の上にあった -
佐々木長治と松浦鎮次郎(しげじろう)について略歴をインターネットで検索してみた。佐々木長治は、伊方町湊浦の人。慶應3年(1867)生まれの地方実業家で、郷里の子弟教育にも私財を投じた人として知られているそうだ。
別府の竹瓦温泉のアーケードをつくったり、別大電車の豊後電気鉄道株式会社社長をつとめるなど温泉都市別府の開発にも活躍したという興味深い記事がインターネット上の「懐かしの別府ものがたり今日新聞」にあった。別府開発に活躍した佐々木長治の同名の後嗣、佐々木長治(1894-1970)は、伊方郵便局長をはじめ西南銀行、予州銀行などの頭取を歴任し、伊予合同銀行(現伊予銀行)への大同合併に貢献し、衆議院議員、貴族院議員、八幡浜市長も務めたと「伊方町誌」にあるという。以上は、インターネット記事の孫引きで、伊方町誌はあたっていない。ただ、手元の昭和62年版「八幡浜市誌」に第三代八幡浜市長として略歴が掲載されていて内容に異同はほとんどない。佐々木ジュニアも父に引き続き郷土の育英事業に力を尽したとある。保内町川之石の龍潭寺に蔵六の姉の滋賀が嫁いでいた。蔵六が佐々木氏と縁が出来たのは、姉の夫鷲嶺瑚山和尚によるものだろう。鷲嶺瑚山和尚は臨済宗妙心寺内局の監正部長を経て、熱海の別格本山温泉寺の住職となったという。
松浦鎮次郎は宇和島生まれ、一高から東京帝国大学法学部卒。京城帝国大学総長、九州帝国大学総長も務めた人。「当時としてはリベラルな思想の持ち主であり, 昭和初期の軍事教練で九大が軍事講話のみを行い実科教練を課さなかったのは, 文部次官時代の松浦が陸軍当局と折衝して, 大学における教練のあり方を上のように決定したからだという」(『九州大学五十年史 通史』)
以上はウィキペディアの記載からの引用である。松浦は、蔵六に、嘱託で、国史概説編纂などの仕事を世話してくれたという。
川口さんに、岩淵の集落を案内していただいた後、私は満願寺に寄って家路に着いた。
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