山が海にせまった伊予吉田の中でも、奥南運河の先、大良半島はとりわけ宇和海の展望が美しい。
戸島余談
先月、宇和海に浮かぶ戸島を初めて訪れた。宇和島から船で戸島に渡り、さらに日振島経由でゆっくりと海や島々を眺めながら宇和島に戻った。そのおかげで、吉田に暮らしている私は、初めて朝な夕なに眺めていた島々の名前と姿をはっきりと知ることができたのである。
中でも知永(ちなが)峠から夕焼けに染まる吉田湾の奥に笠を浮かべたように見える美しい姿の島が戸島であったことは、自分にとって不意打ちのような驚きであったし、小さな喜びでもあった。戸島という名を聞き知っていたのに、いつも眺めていた現実の島の姿と結びついていなかったものが、すぐにその名と一致するようになったのである。
先月号を出して数日して、戸島についての拙文に、何通かのお手紙や、おはがきをいただいた。一通は、戸島の龍集寺のご住職からのものであった。戸島再訪の機会があれば、一條兼定と戸島の歴史についてご教示を頂けるという有難い文面だった。さらに、もう一通は伊予吉田三引高月家の第12代ご当主である高月一氏からのものであった。高月氏は神戸にお住まいであるが、吉田で1度だけお目にかかったことがあった。手紙には高月氏のご母堂ヨシさんが戸島庄屋田中家のご出身であるということと、私が松田毅一の『キリシタン研究四国編』の記載を引き写して「田中家からは奇しくも2人の優れた司祭が生まれている」と書いたお二方が高月氏の伯父上である田中英吉氏と従兄弟の田中健一氏であり、お2人ともヴァチカンに留学され、後に司教に叙階されておられることなどが記されてあった。すぐに、お礼のお手紙を出したところ、さらに、お手紙を返していただいた。2度目の手紙には、田中健一司教の伝記のコピーや、同司教の司式により戸島で行われた1997年の一條兼定顕彰ミサの模様を伝える朝日新聞の記事が同封してあった。昨年、満101歳で帰天された高月氏のご母堂ヨシさんは、その顕彰ミサへの巡礼団に参加され、懐かしい故郷の龍集寺の石段をスタスタと、昇降されたそうである。
このお手紙に同封されていた田中健一司教の伝記資料のおかげで、松田氏の著書に出てくる田中哲太郎が戸島田中家の14代であり、ヨシさんのお兄様にあたることをも知ることができた。
哲太郎は、宇和島中学から京都の第3高等学校に進み、在学中にパリ外国宣教会の神父にフランス語を習った。そのことがきっかけで、西洋とその文化への関心を深め、やがて、聖書を繙くようになったという。社会の弱者にやさしいまなざしを向け、若年より、弱者が苦しむ社会の矛盾に疑問を抱いていた哲太郎は人の罪を償うために十字架に上死し、復活したキリストに帰依するようになった。東京帝国大学経済学部を卒業した後、哲太郎は龍集寺の檀家総代を辞して宇和島の教会でカトリックに改宗したそうだ。哲太郎の霊名はドミニコであった。その哲太郎の信仰が家族に伝わり先祖代々の宗教観を転回していったという。
以上はいただいたコピーからの引き写しである。ドン・パウロすなわち一條兼定が信仰を深めた戸島に、自らの信仰の力で、家族にカトリックの信仰を及ぼし、2人の優れた司教が生まれる契機をつくった田中哲太郎という誠実な宗教人が生まれたことに感銘を受けたので、行き届かぬ引用ではあるが、紹介させていただいた。
私は断るまでもなく、信仰と無縁なものである。しかし、土佐一條家を描いた大原富枝の小説『於雪』への傾倒から始まった戸島への関心が少しずつ膨らんできた。前回の拙文を「続く」としたのも再訪を期してのことである。次回の戸島は、来月、ゆっくり準備をして、出かけたいと思う。
大良へ
今月は、戸島への旅の余韻にひたりながら、子供のころから、何度も泳ぎに行った吉田の大良の灯台にでかけ、戸島をすぐ前に見る海を眺めてみることにした。
朝の雨が上がり、一気に晴れ上がった午後、吉田町内の国道56号線を長栄橋で渡り、奥南に向かう。何度も何度も同じカーブを繰り返す吉田湾沿いの道をしばらく走り、トンネルを1つ抜けると南君(なぎみ)である。
車は少ないが、たまにすれ違うと、離合の難しい道路をゆっくりと走りながら、漁村をいくつか過ぎる。左手には鬼ケ城連山の姿と宇和島の町がくっきりと見える。見間違うほどよく似た小さな湾を2つほど過ぎると、道がいよいよ狭くなり、堀切になった場所にでる。奥南運河である。
運河沿いの坂を登りきると法華津湾の海が見える。そこで奥南橋を渡る。ものすごい風だ。西側はそれほどでもないが、東側の海は白波が立っている。今度は坂を下り、また2度ほど湾を曲がって過ぎると漁港がある。奥浦漁港である。「はるちゃんの天ぷら」という小さな旗(ごちそうノート参照)が港の入り口に立っている。そこから、又坂道が始まる。左手に奥浦漁港を見ながら上がりきると、道の両側が切れ落ちた馬の背のような道が、前に見えてくる。
メロディライン
100メートルに満たない間だが、なんだか佐田岬半島のメロディラインのように両側の展望が開けた道である。車を止めて、先ず、東側を眺める。右手に法華津湾と法華津峠の山々、佐田岬半島、正面からやや左手に、戸島と嘉島、その奥に日振島が見える。足下の海岸には強風が打ち寄せた波が白い泡を立てている。左手には、すぐ下に静かな奥浦漁港が見え、顔を上げると鬼が城連山が見える。
私は遠くの友人が吉田を訪ねてくれたとき、必ずここに案内することにしている。ほとんどの友人が必ず、景色を褒めてくれる。「しまなみ海道よりずっといい」と言った者もいる。決してほめ過ぎではないし、社交辞令でもない。道を、さらに上って、一旦左に下る。少し先で、まっすぐ大良漁港に下らず、右手に上る道に入り、登りきると、道は大きく左に曲がり、また右に一曲がりして下り始める。
実はここからがこの道のハイライトである。道が左に右にカーブする度にまるで、パノラマのように海と山の景色が目の前に展開する。わき見のしようもない。目の前が全部、絶景なのである。運転さえしていなければ、ちょっと空を飛んでいるような気分にさえなる。空気の澄んだ晩秋から冬もいいし、夏の夕景もいい。桜のちらほらする春も悪くはない。下りの最後の頃に半島の最先端を見下ろすカーブにさしかかる。そのカーブの先まで下ると灯台が見えてくる。
私たちが子供の頃は船で灯台まで送ってもらい、灯台の前の小さな砂浜で泳いで1日を過ごした。この頃は、車で来て、崖伝いの道を下り、磯伝いに灯台の前に回ることもある。水もきれいだし、景色もいい。静かで気持ちの良いプライベートビーチとでもいいたいような場所である。この灯台が吉田湾の入り口で、灯台から戸島は正面、すぐ先に見える。
大良漁港に下り「大良のおえびす様」に賽(さい)して、漁港の集落を過ぎ、急な坂道を上ると、先刻道を右に上がった分岐に戻る。
帰りは、奥南農協から道を山側に上がり、喜佐方経由で帰ることにした。途中、筋の山下亀三郎が建てた宏壮な別荘の庭に満開の枝垂れが見えた。