第96回 梅津寺の鐘
松山市梅津寺
久しぶりに梅津寺を訪ねた。丹精された畑の間の細い道を上り、百合樹が聳え、正面に興居島を見る境内に入った。今年で中国から舶載されて300年経つという鐘も、海岸から移築された本堂も、ひっそりとして静かだった。
望郷と友情の寺
私にとって梅津寺はずっと、子供の頃に通った懐かしい海水浴場の名でしかなかった。ところが、梅津寺という地名は、黄檗宗のお寺に由来するものであった。数年前に、長崎の古書店で、唐僧雪广(せっけん)禅師の生涯をほり込んだ崇福寺開山堂にある鐫板のことを書いた書物に偶然、出会った。松山に帰って、宮田安さんという長崎の史家で黄檗の研究者が書いたその本を読んで、初めて梅津寺を訪れた。
梅津寺は江戸時代後期に中国から長崎に渡り、黄檗宗万福寺をへて、松山藩主久松定直の招きに応じて松山の黄檗宗萬歳山千秋寺の第4代住持となった雪广禅師を開山とする。
本堂の枯淡で、つつましい佇まいや、美しい興居島の眺めに魅了された。本堂にある見事な雪广禅師の像は、穏やかな面持ちの中に「五千里の鯨波を憚らず」渡海してきた禅師の不屈の意志と知的な表情を湛えていたが、深い望郷の念が漂っているようにも思えて胸を衝かれた。それ以来、私は松山を初めて訪れる遠来の友人や恩師を、必ず三津の古い町並みと梅津寺に案内することが慣わしになった。
宮田安さんの『長崎崇福寺論攷』の中に千秋寺の第12代住持で、後に第26代黄檗山萬福寺の住持に進んだ妙庵普最が書き、弟子が清書して板に彫り込んだ雪广禅師の一代記が紹介されている。その中から梅津寺の誕生の経緯が記されている部分を引用してみよう。原文の漢文を宮田さんが書き下しているが、少し補足して、口語に書き換えてみよう。
「元禄12年の秋8月に、藩主定直は雪广禅師を千秋寺に招いた。以後、しばしば寺を訪れて雪广に禅について講義してくれるようにたのんだ。雪广がそのもとめに応じて法を説くと、藩主も家臣も感嘆して心服した。藩主はますます、手あつく雪广を遇し、ある時は城中に招き、あるときは雪广を誘って景色のよい場所を散策し、雪广と親しく交わった。雪广が松山に来て5年目、55歳の時のこと、ある日、藩主定直は雪广をつれて三津浜に遊んだ。海辺をゆっくりと歩きながら古和田というところにさしかかるとすぐに、雪广が言った。ここはほんとうに私の故郷である中国の梅津の風景にそっくりです。あまりに故郷に似ているせいか、雪广は望郷の念が高じて悲しそうな面もちになった。雪广はその場所を動かず、いつまで経っても帰ろうとしなかった。定直は、雪广の様子を見て心を動かされ、すぐに、茅葺きの小さな家を建てさせて雪广がいつでもこの場所を訪ねることができるようにした。雪广の故郷梅津に昔、梅津寺という寺があったが長い間廃寺になっていて、今は、ただ名前が残るばかりであった。それを聞いた定直は、翌年の宝永元年(1704年)に、その海岸に建てさせた小さな家を海岸山梅津寺とすることを許した。。その後は、藩主の定直と雪广は時々この梅津寺を訪れて、風景を賞したり、漢詩を作ってともに唱和したり、禅について語り合ったりして、心を通じあった。」
雪广の故郷、中国蘇州府常熟県にあった梅津寺が藩主定直の計らいで、日本に復興されたとき、雪广は中国から小さな鐘を取り寄せて軒先に吊した。今年はちょうど300年目に当たる。中国から長崎、黄檗山を経て松山に来た中国人の僧と伊予松山藩主が築いた物語のように美しい友情の舞台として、梅津寺の風景は他にかえがたいものであったといえよう。
梅津寺の精霊流し
日差しの強い日であった。顔見知りになったお寺の方に挨拶をして、先ず、本堂の雪广禅師の像を拝観させていただき、本堂の軒先に吊るされた小さくて美しい鐘や、雪广禅師が書いた寺号の額などの写真を取っていた。しばらくしたら、庭の草花に水をやっていたお寺の方がお茶に誘ってくださった。8月のお施餓鬼の時には、梅津寺の門前に市が立つほどのにぎわいであったというお話を伺った。昭和40年頃までは、お盆の精霊流しも行われていたそうだ。古い卒塔婆を集め、30センチほどに切りそろえる。それを2枚重ね、真ん中を釘で止めたものを108組つくり、和船2艘に積み込んで沖に漕ぎ出す。潮の様子を見て船を停め、2枚の板を10字に開いて、真ん中に打った釘に蝋燭を立て火をつける。次々と海面に流していくと、蝋燭は潮に乗って、徐々に広がり、興居島の方に向かって流れる。秘やかな灯りの流れは遠くからも眺められ、幻想的な光景が人々の目をうばったという。お寺では宣伝めいたことを一切しなかったそうだが、地元の人たちは長い間、梅津寺の夏の風物詩として楽しみにしていたそうだ。
お寺の方と話し込んでいたら、飼い猫が帰ってきた。外に目をやると真夏を思わせる強い日差しに照らされた興居島が見えた。
寺の方々のご親切に甘えて、思わず長居をしてしまった。昼過ぎに庫裏を辞し、寺の石門に向かって左手の墓地にある雪广禅師の墓に参って帰路についた。
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