第19回 巨木と鏝絵とたらいうどん
小田町には、樹齢千年を越える巨木が聳える広瀬神社や三島神社、平清盛の娘登貴姫(ときひめ)の伝説が生きる清盛寺(せいじょうじ)など多くの歴史ある神社や仏閣がある。明治の中頃から昭和初年頃まで活躍した名左官、正木長兵衛が家々の土蔵や母屋の妻壁などに残した素晴らしい鏝絵(こてえ)も見ることが出来る。かつて1度も雨の降ったことがないという秋祭りの日、牛鬼や神輿(みこし)が練り、獅子舞が跳ねる山の町を歩いた。
秋祭り
10月20日は小田町全域の秋祭りである。寺村の村社、新田神社の牛鬼と神輿の行列について町を歩いてみた。神輿渡御(とぎょ)の先頭を切って子供の牛鬼と大人の牛鬼が2頭そろって現れる。牛鬼が近づいてくると、家の前に集まって世間話をしながら行列の到着を待ち受けた老若男女の表情が途端に晴れやかになる。祭りの総代や宝刀をもって牛鬼について歩く人たちとの間で、「今年はちょっと、来るのに時間がかかったなあ」「新築の家では、ゆっくり念入りに腰据えて拝みよるからねえ」などと会話がかわされる。牛鬼は各家々の玄関先に首を突っ込んで回し、ご祝儀を受ける。しばらくすると、鬼と天狗の面を付けた若者が2人、竹をささくれ立たせた棒を道路に引きずって、ざーざーと音を立てながら神輿を先導してやってくる。提婆(だいばん)さんという。若い母親やお年寄りが「提婆さん、お願いします」と言って子や孫を抱いてもらう。子供は火がついたように泣き叫ぶのだが、大人たちは「よかったねぇ」といって一向に動じる風もない。提婆さんは神霊渡御を先導する神で、赤面、長く尖った鼻、大きく裂けた口、鏡のように光る目を持った異形(いぎょう)の神猿田彦(さるだひこ)のことであるそうだ。抱いて貰うと、子供の健やかな成長に御利益があるという。最後に宮司さんや法被を着た世話役の人々と共に子供と大人の神輿がやってきた。神社から寺村の商店街を通り水地(みずち)のお旅所まで約3キロほどの道のりを一軒ずつワッショイ、ワッショイと気勢をあげて神輿は渡御してゆく。こうして、太鼓や人々の歓声が澄み渡った山の町に響きながら、長閑(のどか)に秋祭りの1日が過ぎていくのである。
鏝絵を見る
水地のお旅所で祭りの列と別れ、寺村の新田神社の上、山側にある上木家に向かった。小田町には、民家や土蔵の妻壁に見事な鏝絵が多い。「愛媛鏝絵の会」の岡崎直司氏(元『あけぼの』編集長)の調査によれば43ヶ所の民家に見るべき鏝絵の存在が確認されている。上木家の鏝絵は小田鏝絵の元祖とも言うべき、正木長兵衛の作品であると伝えられる。12支の虎の鏝絵と懸魚の部分にある鶴の鏝絵が健在だが、2つともどことなく愛敬があって素朴なやさしい表現に見えた。正木長兵衛は小田町町村の左官で、その技の冴えは近郷に知れ渡っていたという。鏝絵の歴史は思ったより古くはない。明治になって士農工商の身分制度が崩れ、衣食住すべてにわたった封建的な規制が緩んで、人々が自由に自分の家を建てて良くなってからのことである。鏝絵は、漆喰壁に鏝で浮彫りを施し、さらにその上に色漆喰を重ねたり、あるいは彩色したりして絵画的な表現をしたものである。幕末から明治にかけて、天才左官の名をほしいままにした「伊豆の長八」こと入江長八が考案し、明治という新しい時代の到来と共に長八の弟子達によって全国津々浦々に広められたという。小田の正木長兵衛と「伊豆の長八」の接点は明らかではないが、正木長兵衛や彼の弟子の左官達が誇りと喜びをもって、次々と自分達が塗った土蔵や民家の壁に鏝絵を描いていったことだけは間違いない。小田を歩いていると、様々なところで鏝絵に出会う。正木長兵衛作と言い伝えられるものには、上木家の他に町村の都築酒店酒蔵妻壁にある「鶏」、道路拡幅で解体された本川の藤村家2階雨戸の戸袋にあった「金太郎」(前出、愛媛鏝絵の会の岡崎氏が保管)などがある。1人で歩いているときにふっと見上げた民家の妻壁や懸魚に見事な鏝絵を見つけるのは、ほんとうにうれしいものだ。
木地挽きとたらいうどん
小田町を歩くとそこここに、「生うどんあります」とか、「たらいうどん」などの貼り紙をよく見かける。今月のごちそうノートで紹介した「小番食堂」のように漫画の看板を掲げた店まである。小田町文化財保護委員を務めておられる永見浩之氏のお宅で、たらいうどんをご馳走になった。小田町では、冠婚葬祭の時には「たらいうどん」が必ず出てくるという。ご馳走をたべ、お酒を飲んで、談笑しながら、あるいは故人を偲びながら、このうどんを食べるのだそうだ。今ではすっかり、「たらいうどん」という名が広まっているが、永見さんによれば、湯だめうどんの入れ物は、ほんとうは「たらい」ではなく「飯ぼう」というのだそうだ。しかし、「たらいうどん」という呼び名が喧伝されたため今ではこの方が通りがよくなった。昔、旧家では、客1人ずつに木地物の「うどんびら」という容器にうどんを入れて膳に付けて供したものだという。小田深山は、遠く桓武天皇の御代に良木を朝廷に献じたというほど銘木の産地として古くから知られ、深山には木地師が住んでいた。永見さんから、江戸の後期18世紀末に編まれた『大洲随筆』に「深山(みやま)」という一節があり、その中に「山中に木地挽きというものあり、轆轤師(ろくろし)なり。いささかの小屋をしつらい、住居して妻子を養うとぞ、深山の木を挽きて、椀鉢(わんはち)の類をつくり売るなり」とあるのを教わった。深山で作った椀や鉢は広く山裾の集落に売られたことであろう。地粉でうどんをつくり、木地の器に湯だめで食べることはその頃から行われていたのかもしれない。
〈参考〉
『小田町の文化財』小田町教育委員会編、『角川日本地名大辞典 愛媛県』、『消えゆく左官職人の技 鏝絵』藤田洋三著、『大洲随筆』伊予史談会双書
●取材協力 永見浩之さん・正木操さん
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