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第89回 緑滝温泉紀行
 
北宇和郡津島町下畑地 
 新しい熱田温泉が賑わう津島町の古い県道沿いに、静かな山の温泉がある。秋が深まった日曜日に出かけてみた。

 『てんやわんや』の町
 宇和島から国道56号線の松尾トンネルを抜けるとすぐ、右手に津島町営の熱田温泉がある。たいへんなにぎわいだが、今日はここを通り過ぎる。町に差し掛かったところで、岩松橋から岩松川を対岸に渡った。橋の袂から古い家並が続く川沿いの道を走る。すぐ先の大きな松の木のところに、太平洋戦争の敗戦後2年間近くを津島町に疎開し、後にユーモア小説の『てんやわんや』と、私小説『娘と私』を書いた獅子文六が暮らした大畑旅館がある。いつもは閉まっている正面左手の立派な門が開いていた。そのまま通り過ぎ、建物が新しくなった小さな魚市場を過ぎ、青いトラス橋の袂から左折して商店街に入った。昭和25年に制作された渋谷実監督の松竹映画『てんやわんや』はこの町でロケーションが行われた。敗戦後の混乱した世相を背景に、価値観の転換が生み出す滑稽で軽率な状況に生きる人々の哀歓を小気味よいテンポで描いた映画は今、ビデオで見てもそれなりに訴えるところがあるし、当時の美しい町並みや祭りの賑わいが実写で記録されているのも楽しい。その映画に撮し取られた町並みと現在の町並みを重ね合わせながら、商店街を通り過ぎて再び国道に戻った。
 緑滝温泉
 目的地は緑滝温泉である。国道を津島大橋から約2キロほど南下し、鴨田のバス停を過ぎた先の道標のある分岐で左の県道に入った。道は、保場川にそって、屏風のように谷を囲んだ山にむかって続いている。澄んだ空と白い雲、山裾の農家や収穫の終わった田んぼのなつかしくのどかな風景の中を1キロほど走ると、いったん人家が途切れる。すぐその先のカーブのところにあるのが緑滝温泉である。緑滝温泉は、れっきとした個人経営の温泉で、ここから保場川の下流900メートルの川原から湧き出る水温約20度の源泉を組み上げて引き、約30年ほど前に開業。創業者が何度も松山に足を運んで県の許可を取った。開業当時、泉源を調べた愛媛大学の先生がラドンを少量含む弱アルカリ性単純泉の泉質のよさについて太鼓判を押したという。
 私は、通りがかりに国道の分岐に立ち木に隠れるようにして立つ案内板がふと、目に入って立ち寄ったのがきっかけで、この温泉のファンになった。建物やタイル張りの浴槽にこれといった特徴も格別の風情があるわけでもないし、冷鉱泉の沸かし湯でもある。しかし、来るたびに、いつも電話もかけずにフラッとやって来た私たちのために、いささかのいやな顔もせずに湯を汲んでくれるおばあさんの人柄や、留守番をしているようにぬれ縁で昼寝をしている猫のタマの顔がなつかしいものに思えるようになった。夏に滝遊びに来た家族連れや、夫婦連れのお客と一緒になった時以外は1度も他の客と出会ったことがない。まったく山の湯治場といった趣さえある静かでのんびりした雰囲気は何ものにもかえがたいと思うのである。こじんまりとした温泉だから、湯量を心配する気遣いもなく、はやりの循環をする必要もない。今はほとんど灯油で炊いているそうだが、薪とソーラーを併用していて、湯が軟らかい。思い出したように来る客を相手にしていては、商売としてはたいへんなのだろうが、そんなことはどこかに等閑した浮世離れした親切にいやされる思いがするのである。
 誤解を招いてはいけないから。敢えて付け加えるが、緑滝温泉は、保場川の清流に面して、屏風のような山の麓に立つ、1軒宿の静かで風情のある民宿兼温泉ではあるが、国道からわずか1キロほど舗装された県道を入っただけの所にあって、決して人里離れた不便な場所にあるのではない。言わば「程よい距離にある別天地」なのである。
 緑田の滝
 車を止めて声をかける。ところが今日は留守のようで応答がない。しばらく待ったがおばあさんが、一向に現れない。町に買い物にでも出かけたのか畑にでも出ているのであろう。タマに声をかけたらミャーといってすり寄ってきた。今日は温泉はあきらめて、少し奥の緑田の滝を見て帰ることにした。
 緑田の滝は、温泉からさらに1キロほど入り保場川にかかる小さな橋を越えたところから遊歩道を300メートル程上ったところにある。橋のたもとに四阿があり車を止める場所もある。夏を過ぎて訪れる人もないのか、遊歩道の表面には多少草が繁っているが、歩きにくいほどではない。木々に覆われた渓谷沿いの道を岩にかけられた木の橋を越えて10分程上ると滝に着いた。滝は二筋になって崖を洗いながら滝つぼに落ちていた。滝を眺めながら少し休んで、県道に降りた。
 観音岳
 いつか、温泉でこの県道をずっと上ると海岸線が見え下畑地に下ると聞いたことがあった。少し心細いほど車の通らない県道であるが、上がってみることにした。つづらに折れる急坂をさらに2キロほど上ると、道標がある場所に出た。まっすぐ行くと御内、上槙、右に行くと横山とある。今日は、右手の横山の方へ進む。しばらく行くと大きく展望が開けた。正面に観音岳から篠山へと連なる800メートル級の山々が見える。その先で道が上下に分岐しているが道標がない。右に下った。しばらく先に美しい農家があった。廃屋のように見えるその農家を過ぎて、しばらくアップダウンを繰り返すうちに産業廃棄物の処理場に行き当たった。そこからは展望のない、ダンプカーが通る道になり、5分も走らぬうちに下畑地に着いた。どうも、途中の分岐で道を誤ってしまったようであった。
 家に帰って50,000分の1の地図で確かめると、右に下った分岐をまっすぐ上に行くのが正解だった。そちらを行けば内海の柏坂を越えた茶堂の集落に出て、そこから上畑地の大門に下ることができたのである。かつて内海から歩いて越えたことのある柏坂の道と、この県道がクロスしていることがわかった。初めての道ではあり、1人で気弱になって、下ってしまった。
 それにしても、津島は奥が深い。海山の風景がダイナミックに入れ替わる。奥深い山々の集落を縫うように遍路道や古い往還を受け継ぐ県道が走り、分け入っても分け入っても興味が尽きない。

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1996-2012


緑滝温泉
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温泉を切り盛りするおばあさんと愛犬の柴犬ミハル

緑田の滝の入口に架かる橋

観音岳から篠山への連山が見える

県道の最初の分岐。右に曲がる。

静かな緑田の滝。水量が増えると景色は一変するそうだ。

山中の県道を行くと、人の影が見えない農家があった。



樹間に宇和島の背後に聳える山々が見える。