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第79回 石手川散歩
 
 
 正月4日、寒い風が吹く日に、友人を誘って松山市2番町の夏目漱石下宿跡から、石手川公園に出て川にそって石手寺まで歩いてみた。

 愚陀仏庵の跡
 2番町の三越百貨店の西側から、飲食店が両側に櫛比する、南向き一方通行の細い道を入ると、すぐ左側に「天平」という天ぷら屋がある。ここが昔、夏目漱石が正岡子規と50日余り同居した上野家の離れがあった場所である。道の脇に御影石の石碑が立っていて「夏目漱石仮寓愚陀仏庵址」と刻んである。「愚陀仏は主人の名なり冬籠」という漱石の句にあるように、愚陀仏は漱石の俳号で、その住み処だから愚陀仏庵である。子規に、「漱石寓居の一間を借りて」という前書のある「桔梗活けてしばらく假の書斎かな」という静かな句があるが、幾日も経たぬうちに、愚陀仏庵には、松山中の子規の俳句の門下生が日参するようになり、漱石は読書も出来ないような状態に立ち至ったという。それで自分も止むを得ず俳句をつくったのだという漱石の正直な談話が残っている。
 しかしながら、このあたりは空襲で焼けているから、子規や漱石が暮らしていた明治の面影や風情などは少しも感じられない。松山の市中には、愚陀仏庵だけでなく、子規の生家跡や育った場所、碧梧桐の生家跡などに解説文を付した案内柱が建てられているが、わずかな例外を除いて、空襲が完璧に昔の風景を消し去っているから、案内柱はいわば墓標のようなものになっている。だから、子規や漱石の時代の具体的なかたちを見るには萬翠荘裏の城山山中に復元された「愚陀仏庵」や、正宗寺の子規堂を訪ねたほうが穏当である。
 もちろん場所の真実性や当時の街のスケールをつかむために「墓標」を訪ね歩くのは確かに必要なことである。しかし、車の通りの激しい中の川の広い通りの真ん中に立つ子規住居跡の碑や句碑などを見ると無残な気持ちに襲われるのは必至であろう。
 正月休みの午前9時ということもあり、朝の遅い飲食街には人影もなく、どことなくうらぶれた雰囲気さえ漂っている。私は友人から家族で食べたことがあるという天平の天ぷらの味や店内の様子について聞いたのち、愚陀仏庵址の案内柱を見て解説文をおさらいし、すぐに、その通りをまっすぐ南に向かって歩き始めた。
 石手川公園
 3番町通り、千舟町通りを越え、銀天街のアーケードを横切り、中の川通りに出た。車の流れが途絶えるのを待って左斜め方向に道路を横断する。シャッターの下りた柳井町商店街を通り抜けると立花橋に出た。懐かしい雰囲気のある鉄骨の立花橋の袂から石手川公園に入り、川沿いに歩く。川はほとんど枯れて野草に覆われているが、公園内には昔ながらの老松や青々とした球形の寄生木を付けたケヤキの巨木がそびえている。数10羽の鳩が日溜まりで餌を啄ばんでいる。皆丸々とよく肥った鳩である。気持ちのよい土の道をしばらく歩き、国道11号の下を潜った先に「火除地蔵」の小さな御堂があった。解説板を読む。石手川公園は江戸時代には庶民の墓地であったとある。墓石が7,000余基もあったそうだ。大正2年に墓地は市立公園になり墓はすべて他所に移されたという。この御地蔵様は正徳2年(1712年)に墓域内の立花あたりに建立されたと台座にある。明治22年に立花橋が付け替えられたときに現在の場所に移されたそうだ。火除に格別の御利益があるという。穏やかな御顔を拝して、一旦公園の外に出る。隣の多賀神社に参拝して、少し行くとすぐ先が新立橋である。橋の袂の金比羅神社に賽して、子規の立派な句碑を見た。「新立や橋の下より今日の月」。今は、とてもそんな景色ではない。
 再び公園に戻り、また川にそって歩く。湯渡橋を過ぎると道が少し川から離れるのでコンクリートの堤防の中ほどに段を切った道に下りて歩くことにした。このあたりまで来ると川に水があるが流れているようには見えない。所々うっすらと氷が張って白く光っている。朝の寒さが嘘のように、日が射して青空が広がった。
 土手の上に、コンクリートの塊が要塞のように積みあげられている。その少し先に木で柵が作ってあって堤防の道が切れた。柵の向こうを見ると小さな大根畑があってその脇から上の民家の庭先を抜ければ表の道に出ることができるようだ。引き返すのが面倒なので、一声かけて失礼することにした。幸か不幸か返事もなく、誰にも出合わぬうちに土手の上の舗装された道に抜けた。
 奥道後の山が少しずつ近づいてきたなと思ったら、上流の方向から松山商業高校の長距離の選手達が走って来た。彼らは石手川の湯渡橋と遍路橋で右岸と左岸をつなぎ巡回して走っているのであった。晴れたり曇ったり、時折冷たい風が吹き抜ける。犬を連れて散歩する人と何人かすれ違ううちに、遍路橋が見えてきた。愚陀仏庵を出てちょうど1時間くらいの時間が経っていた。
 石手寺の不思議
 遍路橋から石手寺まではほんの2、3分の距離である。石手寺は真言宗豊山派。四国霊場第51番の札所で、有名な衛門三郎伝説があり、国守河野息利の男児息方が「衛門三郎再来」という小石を握って生まれたことで寺の名を石手寺に改めたという。鎌倉末期の建築である蟇股が美しい楼門(仁王門)は国宝で、仁王像は運慶の作と伝えられる。境内右手の三重塔と鐘楼も鎌倉末期の建築で重文に指定されている。
 時たま石手寺入り口付近の景観の俗化が指摘されることがある。しかし、石橋を渡って参道に入ると、いつの間にか解毒されたように佇まいが落ち着いてくる。なんとも不思議であるが細かいことを言う気がスーッと消えていく。寺が現実に生きているということであろうと思う。聖俗が親近することが当然であって、少しも違和感がないのである。
 仁王門を潜って、本堂に参り、境内の御堂を一回りした。正月のせいか、境内にはお遍路さんの姿にくらべて家族連れの姿が目立って多い。 
 一緒に歩いてくれた友人と新四国のある裏山に登ってみた。石段を上がって10数分ほどの登りで頂上に着いた。いつの間にか日が陰り寒々とした曇り空が広がっている。西に城山や瀬戸内海が見え、東には雪をかぶった四国山脈が見えた。下から見上げた巨大な弘法大師像は隣の山であった。少し冷えてきたので、私たちは急いで山を下り、参道脇の51番食堂に入って少し休むことにした。(ごちそうノート)

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1996-2012


石手川公園 巨木に球形の寄生木がたくさんついている。市中の喧騒を避け、石手寺まで気持ちの良い散策が楽しめる。
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復元された愚陀仏庵。

多賀神社にある「さくら幼稚園」
神社の建物にぴったりの豪壮な和風の幼稚園である。

新立橋の金比羅神社 子規の句碑がある。

遍路橋 お遍路さんが繁多寺から石手寺に向かう時に渡る橋。ここから市坪町の余土橋まで約5.5キロメートル。

国宝の楼門。

公園で出会ったハナちゃん十五歳メスの柴犬。

新春の石手寺境内。

裏山に上がる道。

曇り空が広がった。