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2000年12月号 掲載

 
ペルー・アマゾニア紀行 9
関 洋人 (大洲市在住)
 われわれは、このイキトスの町でいったい何度旅行社の客引き男パブロと出合っただろうか。今日もアルマス広場でモトカーロを降りてアマゾン川の方へ向かって歩いている時にパブロに出合った。ちょうど喉が渇いていたので、われわれはパブロを誘ってすぐ先の角にあるファーストフードの店に入った。この店はどうもイキトスの若者の溜まり場になっているらしい。パブロはこの国の若者の例に漏れず炭酸飲料が好きだと見えて、コカ・コーラを、私は生のオレンジジュースを、そしてドクトルはビールを注文した。
 パブロはいつも、白の半袖のシャツに黒のズボンという地味な服装で、小脇に旅行パンフレットを挟んだバインダーを抱えている。後に聞いたところでは彼は二十八才で子供が二人いる。イキトスの郊外に住み、毎日一時間歩いて職場に通っている。最初は韓国人経営の旅行社で働いていたがあまりに仕事がきついので今の会社に移った。しかし、仕事がいそがしくてきついのは今もかわらない。でも、ここは仕事が少ないからがまんするしかないらしい。彼は「主食には、高いので米が食えず、ユカイモや食用バナナを食べているほど生活は苦しいけれど、それでもインフレがおさまったから、まだいい。フジモリは以前の大統領よりマシだ」と我々に言った。そのフジモリもつい最近退陣に追い込まれたが……。
 われわれは、しばらく話し、それぞれの飲物を飲み干すと、イグアナを持った少年たちが小銭を稼ぎに近づいてきたのをしおに店を出た。



 ちょうどシエスタが終る頃で、閉まっていた街中の商店が再び開き始める時間だ。日本では手に入りにくい、ペルーの詳細な地図を買おうと思って本屋に入った。その店に地図はなかったがこの店の主人も親切な人で、地図を売っている文具店の場所をきちんと教えてくれた。その店に向かう途中で、こんどは、先ほど広場で別れたアルマンドのモトカーロと偶然出会った。アルマンドは車から降りて我々に「あんたがたの名前を忘れたから書いてくれ」と言った。ドクトルと私はローマ字と漢字で自分の名前を書いた紙片を手わたした。アルマンドは握手をして車に戻り走り去って行った。
 本屋の主人が教えてくれた文具屋で南米とペルーの地図を買う。一枚三~四Soles(百五十円前後)。
 ホテルに四時過ぎに戻り少し休み、七時過ぎになってアマゾン河畔の屋台街に夕食に出かけた。店をひやかしながら適当なレストランを探す。ドクトルは相変わらずジャガーの手のキーホルダーに秋波を送っている。
 アマゾン川沿いの遊歩道に面したレストランMeson nuevo で夕食となった。例によってパイチェ料理。ここはパイチェもなかなかの味だったが、付け合わせのplatanoも不思議に旨い。
 店の外を見ながらドクトルがいかにも感に堪えない表情をして「この街には若い女がすごく多い」と言う。たしかにたいてい、男一人に三人から五人の女がくっついて歩いたり、立話をしたりしている。外の遊歩道で遊んでいる子供たちをあらためて観察しても圧倒的に女の子の割合が多い。
 午後九時から遊歩道の露店街に近い場所でプロ歌手によるコンサートがあるという。道端に腰掛けて会場の設営の様子を見ていたらまたまたパブロが我々の前を同じ恰好で通りすぎて行った。
 私はコンサートを聴くことにしたが、ドクトルは「パブロとビールでも飲んでくる」と言いながらそそくさとパブロの後を追っていった。
(つづく)

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