過去の連載記事
同じ年の連載記事
1999年07月号 掲載

 
ロザリオ(ブラジルマラニョン州) 
関 洋人 (大洲市在住)

シュラスコを切るY氏と正装したピヨンのボス(左)。 サンルイスの街からやって来たY氏は当地に住む数少ない日本人の1人で、 元日本大学少林寺拳法部の主将であったとのこと。


 そろそろあたりが薄暗くなってくる夕方六時過ぎ頃に肉が焼き始められた。そのうちにフェスタは始るともなく始った。私は、ふと、フェスタに出て来たピヨンたちの服装がいつもと違うのに気がついた。ふだんは裸足で上半身は裸、短パン姿なのだが、今日はきれいに洗濯したTシャツを着込み草履を履いている。実に礼儀正しい人達である。
 そのピヨン達が焼いて食べさせてくれたここの肉は旨かった。軟らかくて、しつこくなく、それでいてジューシーである。但馬に住み、いつも但馬牛を食べつけているドクトルでさえ絶賛するおいしさだった。よく外国の肉は不味いという話しを聞く。それは、おそらく観光客向けのレストランで高い金を取られた上に、ボロい肉を食べさせられているのに違いない。あるところにはあるのである。  このフェスタにはロザリオの有力者達が大勢集まっていた。ブラジル最大の銀行バンコ・ド・ブラジルのロザリオ支店長、マラニョン第一のセラミック工場のロザリオ工場長であるエレネウとその家族、そしてこの地方で手広く商売をしているエウジェニの一家。
 ブラジルのフェスタだから飲んで食って歌って踊ってのドンチャン騒ぎかと思えば大違いである。エウジェニとエレネウの息子の友人である大学生が私に「アメリカに原子爆弾の攻撃を受けたヒロシマは現在どうなっているのか」と尋ねてきた。私は、ヒロシマが完全に復興して、百万人が住む大都会になっており、マツダという大自動車メーカーの本拠地でもあること、そして核攻撃という非人道的行為を忘れず、二度と許さぬための記念として爆心地の建物の廃墟が永久に保存されていることなどを説明した。
 ところが、私の話しを聞いた彼らは意外にも、非常な驚きの表情を見せた。彼らはヒロシマには今も人が住んでいないものと思っていたのである。
 彼らは、チェルノブイリ原発の事故では広大な地域が被爆し、多くの人々が強制的に移住させられ、十年近い年月を経た現在も無人の野が広がっていること、さらに最近、ブラジルのゴヤス州ゴイアニアで、野外に捨てられた大量の医療用放射性物質を拾った人々が多数被爆し、ずっと立入禁止措置が続いていることなどを例に挙げ、なぜだと私に聞く。
 私は乏しい語学力を精一杯働かせて説明にこれ努めたがどうもはっきりわかってもらえたものかどうか心もとないのである。
 私たちのまわりでは、子供たちが大はしゃぎで走り回っていた。しかし、大人たちは、いくら盛り上がっても酔って乱れるようなものは誰一人としていない。日本の宴会でよく私がされるように、飲めぬ酒をしつこく勧めるような無礼な人にも出合わなかった。
 ところで、このフェスタの費用は肉をよそで買った(今回のフェスタではここの牧場の牛を潰したのでタダ)としても合計で二百ドル。一人当たり十ドルもかからない。
 参加者に無礼者が皆無であると言うだけでなく、清遊とでもいいたいようなきわめて経済的なフェスタなのである。
(つづく)

Copyright (C) H.SEKI. All Rights Reserved.
1996-2007