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2000年01月号 掲載

 
メキシコシティ 4
関 洋人 (大洲市在住)


 夕方、満足の笑顔をうかべたセニオール・マンタとチーコンコアック村からメキシコシティに戻った。ひと休みした後、メキシコシティの銀座、ソナ・ロッサ(英訳はピンク・ゾーンだが決していかがわしい界隈ではない)へ出かけた。たまたま行きあたったシーフード・レストラン「マラブンタ(marabunta)に入る。その店の名は蟻の大群だとか、群集だとかそんな意味の言葉である。しかし、大入り満員、大盛況を願ったと思われる店名を裏切り、中には客は一人もいない。立派な身なりをしたボーイが開いて見せたメニューから私たちは、当てずっぽうに何品かの料理を注文した。最初に出てきた蟹のスープは眼から火を噴きそうなほどの辛さだった。次に出てきたシーフードのミックスグリルみたいな皿の中に、淡白で旨い揚物があった。何かと思ってボーイに訊いたらカエルだった。


『フリーダとディエゴ・リベーラ』
(1931)

『折れた背骨』
(1944)
 われわれが食事を始めて終わるまで他の客はついに誰一人あらわれず終いだった。(この四年後に再訪した時にはもう潰れていた) 翌日、夜中から激しい下痢と嘔吐に襲われてダウンしたドクトルをホテルに残して、メキシコシティの中でもコロニアル風の雰囲気が残る高級住宅地コヨアカンへ向かった。
 黒沼ユリ子のヴァイオリン教室もこの地区にあるが、私たちは「コヨアカンの青い色」と呼ばれるシュールレアリズムの画家、フリーダ・カーロの博物館を訪ねるために出かけてきた。
 フリーダは巨大にして偉大な画家ディエゴ・リベラの三人目にして最後の妻である。博物館は、フリーダの生家を改装してつくられた。彼女が残した作品は約二百点、ほとんどが自画像である。それも、内臓を露呈し、背骨を折られていたり、刺されて血を流していたり、涙を流しながら流産しているなどの悲惨な光景を不思議な超現実感覚で描いた作品ばかりだ。フリーダは十八歳の時、交通事故にあって背骨が折れ、骨盤は砕け、片足も骨折した。そのときから、彼女は死ぬまで交通事故の後遺症による苦痛と絶え間ない病苦に襲われて生きることになった。彼女は、そんな苦しみが続く中で、ディエゴ・リベラと波乱に富んだ結婚生活(双方が多数の愛人をつくり、フリーダには同性愛の愛人もいたという)を送り、画家としても、大きな成功を得た。

フリーダ・カーロ

ギリェルモ・カーロ撮影(1926)
 フリーダは四十七歳でその短い生涯を終えたが、伝記(『フリーダ・カーロ 生涯と芸術』ヘイデン・エレーラ著)を読むと、私などはほんとうにこんな人生があるのだろうかと、思わずぐったりとしてしまう。しかし、その一方で、その不思議な魅力と激しい生き方に捕らえられてしまうのである。
 フリーダ・カーロ博物館には作品の他に彼女の遺品が彼女の暮らしを再現すべく、巧みなセッティングで展示されている。  ベッドの上に石膏のコルセット、車椅子、立てかけられた松葉杖。そして、彼女自身の灰が入った袋までが無言の内に彼女のありのままの生活を伝えていた。
(つづく)

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