1997年05月号 掲載
第 4 回 天赦園(宇和島市)の藤棚 ― 馬上に少年過ぐ ―
青藤。園内には藤棚が四か所ある
今回は、目のごちそうだ。もう四月末、そろそろ宇和島市天赦園の藤棚が満開である。天赦園は、幕末の文久三(一八六三)年から慶応二(一八六六)年にかけて、宇和島藩七代藩主伊達宗紀、春山侯の隠居所として造営された。池泉廻遊式の庭園で、総面積約一万二千八百平方メートルの三割を池が占める。平日の午前中のせいだろうか、園内にはまるで人影がない。国道のすぐそばなのに、藤に集まった蜂の羽音がはっきりと聞き取れるくらい静かである。
「天赦園」の名は藩祖伊達政宗の五言絶句「馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦すところ 楽しまざるをこれ如何せん」から「天赦」の二字をとったものだ。
昭和三十年代の終わりに、当時は木造だった園内の宿に故司馬遼太郎が泊まった。後に司馬が「それより前に私は仙台に行ったが、都市として規模が大きすぎるせいか、伊達政宗のことなど身辺に感じず、むろん政宗について自分の感じ方を書こうなどとは思わなかった。むしろ伊達家の別家がそこにいた南伊予の小さな町で不意に政宗の息づかいを感じてしまったのは、われながらおかしい」と書いているように、司馬の詩人伊達政宗論ともいうべき『馬上少年過ぐ』は、宇和島の天赦園で得た情感によって生みだされたものであった。
池の南から北にのびる出島の先端近くから西側の蘇鉄の築山の方に向けて、
池を跨いで掛けられた藤棚の白藤が満開だった。
庭園の周囲には「遠くから見るとわき上がる緑の雲のようにみえる」と司馬遼太郎が書いた楠が繁る。
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