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2005年06月号 掲載
第50回 閑話放題〈その一〉
文/井上 明久

- 愚陀仏庵にて -
 閑話放題。かんわほうだい。
 無論、こんな言葉はない。僕のいい加減な造語である。話が横道にそれた後、もう一度本筋に戻す時に用いる語として、「閑話休題」が使われる。しかし、本稿のようにどこにも本筋がなく、すべてが横道であるような場合、何を書いてもそのどれもが閑話なので、そこで閑話放題と駄洒落てみた。
 閑話休題(さておき)。道後にある子規記念博物館で「漱石のいた日々」という館蔵資料展が開催されているというので、松山に行ってきた。去年の三月、愛媛県立美術館で行われた絵手紙作家・小池邦夫さんの講演「棟方志功と私」を拝聴しに行って以来、一年二ヶ月ぶりの松山である。
 話はそれるが(と、わざわざことわる必要がないのは冒頭に記した通りなのだが)、小池さんの講演を「拝聴しに」と書いたけれど、単なる「拝聴」で終らなかったのがこの講演会で、そこにはむしろ「拝見」の要素が十二分にあった。
 壇上に登った小池さんは、携えてきた紙袋の中から墨の痕が処々に付いている反古紙(はごし)を取り出すと、それを乱雑に折って頭に鉢巻代りに巻きつける。次に、それまでかけていた眼鏡をはずし、「今日、このために買ってきました」と言いながら、紙袋の中から今度は太い黒縁の眼鏡を取り出してそれをかける。そして、少し背をかがめるようにして語り出した小池さんは、もう棟方志功さんそのものになりきっていて、会場からはヤンヤの喝采と熱い拍手が湧き起こった。
 日本の棟方を世界のムナカタにした板画の素晴らしさは当然のこととして、世間であまり言及されることのない棟方の墨絵や手紙といった肉筆画の類(たぐい)を、むしろより秀れたものとして評価し、重要視すべきではないかという小池さんの論点は、日常即美を実践する中で一点一点の手紙や作品に心血を注いでいるいかにも小池さんらしい視点がうかがえて、実に興味深い内容だった。
 この時の東京松山往復は事情(わけ)あって飛行機を利用したが、なるべく乗らないですむのならそう願いたい飛行機嫌いのくちなので、今回の松山行きは当然ながら岡山まで新幹線、岡山からは特急しおかぜ、というルートを取った。僕はこの特急しおかぜが大好きで、乗る度にいつもワクワクする。
 本州側の児島と四国側の宇多津の間、瀬戸大橋を通って瀬戸内海の海上を渡っていく時の、左右眼下に広がる風景の雄大さと壮美さはちょっと例がないほどに凄い。陽光を浴びてキラキラ光る海面。次々と現れてくる大小無数の島々。海上を往き交う大船小船。ゆるやかな白い波紋の連なり。太陽と空と海と島とが織り成す壮大なパノラマは、いつまでもいつまでも見ていたい欲望を喚起させる。  閑話休題、いや閑話放題。新緑の松山は美しかった。全日空ホテル十四階のレストラン「イタロプロヴァンス」の窓からは、濃淡さまざまな色合いの緑が折り重なった松山城のお山が眼前に迫って見えた。萬翠荘の庭では、色形とも鮮やかなバラの展示会が開かれていた。裏手の石段を登った先には、林に囲まれていつも通りに愚陀仏庵が待っていてくれた。
 朝まだ早い愚陀仏庵では、お茶席の準備をする人たちが何人も忙しそうに立ち働いていた。が、僕は別のものを見ていた。一階には、療養後の体を横たえながらそれでも食欲は衰えていないらしく何かを食べつつ帳面に文字を書きこんでいる子規がいる。二階の窓からは、また明日も腕白坊主どもと格闘しなければならんのかと憂鬱そうな顔をした漱石が西の空を見上げている。
 僕は松山に夢の中の旧友に逢いにくる。そして有り難いことに、松山では現(うつつ)の旧友がいつも僕を迎えてくれる。この現の旧友は僕にとって“畏友”そのものであり、同時に意友で為友で慰友で偉友でもある。僕と旧友は肩を並べて歩きながらさまざまなことを語り合う。が、話は自ずと二人に共通な夢の中の旧友のことへとつながっていく。これが僕の松山である。
  友と逢ふ 松山の春 みどり濃く    迷求
(この項、続く)

 
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