第76回 「東京の坊っちゃん」〈その18〉
文/井上 明久
寺田寅彦「龍舌蘭」の家
山嵐の野郎、何処かで聞いた事のある様な、いや、何処かで言った事のある様な、飛んでもない罵詈雑言を吐きやがった。何て奴だ。言われっ放しじゃ、こっちの腹の虫が収まらない。と言って、何もないのに言い返す訳にもいかない。よおし今に見てろ、山嵐の汚ねえ言葉尻を捕まえて散々罵ってやるから。
が、その前に、先ずは下手に出ておかないと不可ない。おれだって、それくらいの高等戦術は使える。そうそう馬鹿にしたもんではない。
「わかった、わかった」
「そうかい、あの花房章二郎がわかったかい。流石だな」
「いやいや、そういう意味ではなくて、君が怒るのも無理はないとわかったという事だ」
「何だい、妙に殊勝だな」
「どうも最近は物忘れが激しくなってね。もう歳なのかな。君にもいろいろと迷惑をかけているのではないかと、実は気にしていた所なんだ。だから、そんな大事な人の名前を忘れていたなんて、本当に君に対して申し訳ないと感じたんだ」
「いや……何も……おれは……」
山嵐の歯切れが途端に悪くなった。変だな、と思った。その時ホンの偶然なのだが、あいつ先刻、流石だなとか何とか言わなかったか、とおれは思い出した。話の流れから言って、あそこは可笑しくないか。山嵐にしてみれば、おれがその花房章二郎なる人物が誰であるかわかったとして、おれに対して流石だなとは言わないだろう。当然だな、とか、遅きに失するよ、と言うべきだろう。となると……
「君は流石だよ」
「どうして……」
おれの誉め言葉に、山嵐は不安気な顔をした。
「だって、こんな駄目なおれに対して、君は先刻、流石だなって優しく言ってくれたじゃないか」
「…………」
山嵐の顔は不安を通り越して神妙になった。そして、言いにくそうに口を開いた。
「そんなに言ってくれるなよ」
「どうして?」
「どうしてって……。実を言えば、キツネから花房章二郎が来るって言われた時、おれも最初は、いやホンの一瞬の事だよ、本当にホンの一瞬の事だけど、誰だかわからなかったんだ」
「何だって?」
「いや、だからね。実を言えば、おれも」
おれは最後まで言わせなかった。山嵐の汚ねえ言葉尻を捕まえたのだ。この瞬間を逃すものか。
「実を言えば、おれも、だって?」
「うん、まあ……」
「この、ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴め」
「きみ、それはどっかで……」
「どっかでどうしたい? それじゃあおまけに、このオッタンチン・パレオロガスめ」
おれは清々した。そうなればいつまでも後を引くおれじゃあない。
「それで、花房章二郎ってのは誰だい?」
山嵐はおれ以上にいつまでも後を引く男じゃあない。顔も態度もすぐに変わる。つい先刻までとまるで別人間だ。
「赤シャツ」
「ナニ?……」
「だから、赤シャツだよ」
一瞬にして、攻守ところを変えた。何故だか知らぬが、山嵐は堂々と胸を張っている。おれは理由もないのに肩を落とした。そして、細々と訊き返した。
「赤シャツってえと、あの赤シャツ?」
「そうだ、あの赤シャツだ」
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