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2004年11月号 掲載
第43回 占いについて〈その三〉
文/井上 明久

雑司が谷の鬼子母神境内
 短編連作の形式をとる『彼岸過迄』は、小説全体の前半では狂言廻し役の田川敬太郎が東京中をやたらと動き廻り、後半に入って真の主人公ともいうべき須永市蔵の複雑な内面世界へと徐々に沈潜していく。
 元来、『彼岸過迄』が漱石の他の作品と比べてそれほど評価されず、また批評の対象となることも少ないのは、主にこの前半と後半のトーンの違いを構成的破綻ととらえ、故に一貫したテーマの追求に失敗していると見る意見が多いからである。
 そしてここにはまた、作品評価の裏づけとしてこの作品が書かれた時の作者漱石に関わる状況も加味されている。すなわち、明治四十三年八月、伊豆の修善寺で療養していた漱石が吐血し危篤状態に陥った、いわゆる“修善寺の大患”後、はじめて書かれた小説だという点である。体調はまだまだだし、漱石は本調子に戻っていない。この作品は肩慣らしの試運転だ。そんな臆断が『彼岸過迄』を見る目に付加されていることが多い。
 そこから、後半の内的ドラマはいかにも漱石らしい深みと問題性を持っているが、前半のチャカチャカした騒々しさはどうもいただけない。後半になってようやく本来の筆力をとり戻したのだろうが、あれで前半から一貫して書かれていたら漱石を代表する一作になっていたかもしれない。そんな評価が主流となる。そこでもっぱら批評の対象となるのが、後半部分の「須永の話」と「松本の話」ということになる。
 がここで急いで付け加えれば、漱石批評史の中では比較的新しい一九八〇年代に、都市論的視点を導入した前田愛や大岡昇平らによって前半部分の「停留所」が注目され、『彼岸過迄』全体の評価になにがしかの変化が見られたことは間違いない。
 そしてさらに蛇足中の蛇足である愚見を付け加えれば、敬太郎がドタバタと無駄な活動をする前半部分の“動”があるからこそ、須永を中心とする後半部分の“静”の深さが際立つのではないだろうか。つまり前半と後半は決して水と油ではなく、また縦(よ)し水と油であったとしても、それは水は水の、油は油の特性をより鮮明に表現するために有効であって、決して不本意とか、無意味とか、破綻とかという言葉で退(しりぞ)けられる性質のものではない。
 前回にも触れたが、敬太郎的系譜に連なる登場人物は、漱石の作品において重要な要素の一つであり、作者漱石からも十分に愛されている。そしてそれはとりわけ、『坊っちゃん』『虞美人草』『三四郎』など前半期の作品により顕著である。そこでやはりもう一度、『彼岸過迄』が書かれた状況に立ち戻らなければならない。
 『三四郎』『それから』に続く、いわゆる“三部作”の三作目にあたる『門』を漱石は完結する。崩していた体調を整えるために修善寺に療養に出かけ、そこで吐血し危篤になる。『門』の完成から一年半の後、ようやく『彼岸過迄』の筆が執られる。朝日新聞の専属作家として時を置かずに書き続けてきた漱石にとって、この一年半のブランクは新聞社に対して、新聞読者に対して、そして自分自身の責任に対して、甚だ精神的負担は重かった。
 満を持して書き始めた『彼岸過迄』の予告となる文章に、漱石はこんな思いを告白している。「久し振だから成るべく面白いものを書かなければ済まないという気がいくらかある。それに自分の健康状態やらその他の事情に対して寛容の精神に充ちた取り扱いをしてくれた社友の好意だの、又自分の書くものを毎日日課のようにして読んでくれる読者の好意だのに、酬いなくては済まないという心持が大分付け加わって来る。で、どうかして旨いものが出来るように念じている。」
 漱石は久しぶりだからなるべく面白いものを書こうとした。そこで、『それから』『門』と徐々に影の薄くなってきた楽天的行動家の系譜に連なる人物を田川敬太郎として創造し、彼を大いに活躍させようとした。『彼岸過迄』を書き出すにあたって、漱石はそんな青写真を描いていたのではないだろうか。
 いやいや、またまた紙数が尽きてしまった。いよいよ小島信夫的、後藤明生的ノンシャランになってきたぞ。それにしても、「占いについて」は次回こそ完結せねば。
(この項、つづく)

 
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