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2005年11月号 掲載
第55回 ひっぱり廻す子規〈その一〉
文/井上 明久

- 卯之町中町界隈 -
 ところで、学生時代の子規と漱石のつきあいぶりというのは、いったいどんなだったのだろうか。
 子規が漱石について一冊の本ないしはまとまった量のものを書くということは、実際ほとんど難しかったろう。病は日々深刻化し、その限られた時間内に、俳句と短歌における近代革命を己れひとりの手で行なわねばならないという、使命と野望に生命を賭けていたのだから。さらには、子規が三十五歳で亡くなった時、漱石の方は英国留学中の身であるだけの、それも己れ一個の行く手に思い惑う、未だ学者とも言い難く、そして未だ文章を書き出してもいない、ただの男でしかなかったのだから。
 それに対して、漱石が子規について一冊の本ないしはまとまった量のものを書くということは、ある程度は実現可能だったのではないだろうか。子規に比べれば多少は漱石の方が時間の余裕もあったし、没後の子規に対する社会的評価と漱石自身の文壇的地位との双方から、そういうものが書かれても不思議はなかった。
 もっとも、漱石だって胃弱と神経で年中痛めつけられていたし、朝日新聞入社以降は責任感とプレッシャーから来る実際以上の多忙感を抱きつづけていたであろう。夭折という語を四十九歳の男の死に用いるのは確かに間違っているのかもしれないが、漱石の場合、書き出してからの実働が十二年弱ということもあり、感傷的な思いも手伝ってどうしても夭折だという気がしてならない。だから、実際問題としてそれは無理なことだったのかもしれない。けれどもそんな本を、つまり若き日の子規と漱石のつきあいぶりの細やかな様を描いた本を、漱石にはぜひ書いてほしかったと思わずにはいられない。
 そんな時、僕はいつも『三四郎』のことを思う。序(ついで)に言えば、僕はただ漱石が好きなだけで、従って漱石作品そのものと向き合っているばかりなので、世にあまたある漱石論の類は不勉強なことにほとんど読んだことがない。だから、こんなふうなことはすでに言われているのかいないのか頓と知らないのだが、『三四郎』に登場する佐々木与次郎なる人物に、僕はなにがなし子規の面影を感じてしまうのだ。ひょっとしたら漱石は与次郎の言動を書き進めながら、そこに子規のことを連想していなかったか。そして与次郎と三四郎のやりとりに、若き日の子規と自分のことを思い返していなかったか。
 例えば、『三四郎』にこんな場面がある。
  「昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、昨日ポンチ画(え)を書いた男が来て、おいおいといいながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。」
 知り合いでもないのにおいおいと傍若無人に声をかけ、頼みもしないのに勝手に淀見軒に連れていって、三四郎にライスカレーを食わせるこの男が与次郎である。
 作品の中では、三四郎は熊本から上京したばかりで東京に不案内な若者であり、与次郎は東京に暮らす先輩という位置関係にある。そして実際は、漱石は江戸っ子であり、子規は十六歳で上京したから多少の年期は入っているものの地方出身者である。だから立場の点から言えば、三四郎が子規に近く与次郎の方が漱石であってもいいようなものだが、そこがどうしてもそうは思えない。三四郎が与次郎にひっぱり廻されるように、漱石は子規にあれこれとひっぱり廻されていたにちがいない。
 漱石に「正岡子規」という談話がある。明治四十一年九月の『ホトトギス』に掲載されたものである。実は、『三四郎』が「朝日新聞」に発表を開始されたのが、全く同時期の明治四十一年九月なのである。となれば、談話という形式で求められた子規に対する回想が、『三四郎』の進行になにがしか反映されていても不思議はないかもしれない。
〔この項、続く〕

 
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