2005年09月号 掲載
- 慶長年間に建てられた松山城の戸無門。高麗門の様式 -
前回、「早稲田の田圃〈その一〉」と標題に掲げながら、早稲田のワの字も、田圃のタの字も出てこなかった失礼を御詫びします。大丈夫です。今回はちゃんと出てきますので。
明治三十四年五月三十日の『墨汁一滴』の前半を要約すれば、東京に生まれた女で四十にもなって浅草の観音様を知らない者がいる、また同じ年くらいの東京の女は筍と竹が同じものだと知らなかった、しかしこれらの女がただ無知だから特にそうだというわけではないので……。と進めてきて、その後半部分をいきなり親友の漱石のエピソードで始めていく。
「余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田甫からは一丁か二丁しかへだつてゐない処(ところ)である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田甫(たんぼ)を散歩して早稲田から関口の方へいたが大方六月頃のことであつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生(へいせい)喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々この類である。若(も)し都の人が一疋(びき)の人間にならうと云ふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。」
菽麦を弁ぜざるとは豆と麦の区別つかないという意だが、子規によれば、若き日の漱石はそうしたいわば人間が生命を繋いでいく上で最も根本的な事柄をも知らぬ都会人だったということになる。しかも、自分の家から程遠からぬところに田圃があって、それを日頃目にしながら米が苗の実であることに気づいていないとは……。
そこで伊予の人・子規は、都に生まれた者が「一疋の人間」になるためには、絶対に一度は自然の中で暮らす体験をしなければならない、と豪語する。ここで子規が一疋の人間と表現しているのは、人間は先ず動物であり、動物としての智恵や能力を持ってこそ初めて一人前の人間になれるのだ、という思いがあるからにちがいない。
そうした子規の目から見れば、当時の漱石は確かに頭も秀れ、人柄も良く、畏友として恃むに足る人間であるが、都会に生まれ田舎を知らぬ者の弱さとして、自然というものの真の姿とぶつかったことがない未だ半人前の人間と映っていたのだろう。
しかし、それにしても本当に若き漱石は田圃の稲が実って米になることを知らなかったのだろうか。あるいは確かにそうであったかもしれない。またあるいはいたずら好きな都会っ子の洒落として、田舎育ちの子規に対して漱石が自からを卑下してわざとお道化てみせたということはなかったろうか。後の『坊っちゃん』を見れば、著しく誇張した表現でユーモアに転化しているが、都会対田舎の対立の構図は漱石の中で割と根深いものがあるのではないか。そしてその遠因に、案外、子規と一緒に早稲田の田圃を歩いている時の体験があったりして……。
ところで、直接に自己を語ることが比較的寡(すく)なかった漱石に、『硝子戸(がらすど)の中(うち)』という忘れ難い印象を読む者に残す随筆集がある。書かれたのは大正四年の一月から二月で、翌年の大正五年十二月に満四十九歳で亡くなるので、この時の漱石にはもう二年弱という歳月しか残されていなかったことになる。
冒頭近くに、次のような一節がある。
「私は去年の暮から風邪を引いて殆ど表へ出ずに、毎日此硝子戸の中(うち)にばかり坐つてゐるので、世間の様子はちつとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐つたり寐たりして其日其日を送つてゐる丈である。」
無論、子規の絶対的な追いつめられ方とは比ぶべくもないが、それでもこれはこれで漱石なりの「病牀六尺」ということが言えるのではないだろうか。
〔この項、続く〕
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