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2004年02月号 掲載
第34回 藍染川幻影(その十)
文/井上 明久
第三章 手取橋(つづき)
「逢初橋で出会った時、貴女(あなた)は僕のことがわかっていたのですか」
 「ええ。私、兄と貴男(あなた)が並んで写っている写真を持っていますの」
 「写真……」
 「ええ。兄の話ですと、何でも上野の広小路の写真館で撮ったものだとか申しておりました。憶えていらっしゃいません?」  そうだ。すっかり忘れていたが、二人で上野公園に行った時、記念に写真を撮ろうと言って真一がさっさと写真館の中に入ったことがあった。美しい真一の隣りに立つ醜い自分が嫌で、後日、真一から見せられた出来上りの写真を碌に見もせずに突き返したことを幽かに憶い出した。
 「あの写真、私とても気に入って、兄におねだりしてすぐに貰ってしまいましたの。あれは私にとって兄と貴男の大切な思い出です。それに、兄の葬儀にいらしてくださったでしょ。あれから何年も経っていますが、少しもお変わりになっていらっしゃいませんもの、すぐにわかりましたわ」
 「お兄様の御葬儀の時のことは何も憶えていないのです。どなたがどこにいらっしゃったかも、まるで目に入っていなかったのです」
 「兄からは本当によく貴男のことを伺いました。たまに横浜に帰ってきて、私にだって兄に話したいことは沢山ありましたのに、兄ったら貴男のことばかり話すのですもの、時々、貴男のことを憎らしく思ったりもしましたの。ごめんなさい。失礼ですわね、こんなこと申し上げて」
 「いえ……」
 「でも、兄は貴男のことを話すのが本当に嬉しそうでした。あんまり嬉しそうなので、いつの間にか聞いている私までが嬉しくなるくらいでした。兄は貴男とお友達になれて本当に幸せだったと思います。それが私には嬉しいのです」
 「…………」
 「それにしましても、私が兄の妹だとは全然お思いになりませんでしたの」
 「申し訳ありません。まるで気の廻らない、真からのぼんくらですので」
 「いえ、無理もありませんわ。ちっとも似ていませんものね。兄は母似で、私は父似ですの。私も母に似れば兄のように美しくなれたのにと、いつも悔しがってますわ」
 そう、確かに貴女のお兄様は美しかった。けれど、それとは違うまた別の美しさを貴女は持っている。貴女は貴女としてお兄様に負けぬほどに美しい。無論、僕は思っただけでそれを口に出すことはできなかった。
 「私、無躾けを承知でお願いがありますの」
 「お願い……」
 「ええ。ご存じのように兄はとても英語が好きでした。そしてとても得意でした。貴男が何をもって身を立てられるのかは存じませんが、たとえ何をなさっていても、どうか兄が好きだった英語を兄への思い出の代りとして生涯忘れないでいただきたいのです。貴男という人間の中に兄の形見としていつまでも英語を生き続けさせていただきたいのです。そうして、貴男とともに生きている兄をいつまでも私に見させていただきたいのです」
 そう言うと、道子さんはそこに立ち停まり、白い両手を強く前へ突き出して僕の右手を取った。そして、無言のまま三度(みたび)、四度(よたび)と取り合った手を上下に揺らした。それから、急に夢から覚めたかの如く大きく目を見開くと、あわてて重ねていた両手を引っ込め、赤らめた頬を隠すように首を横に振って、それまでとはまるで無関係なことを求める風に僕に尋ねた。
 「この橋の名は何ですの」
 「手取橋です」
 すると道子さんはアラッと小さく声を発し、そのまま別れの挨拶もそこそこに足早やに橋の向こうへ去っていった。
 僕もまた道子さんに倣って別れの挨拶もそこそこに手早やにこの手紙を終えることにするよ。敬具
   賢兄に            愚弟から


谷中瑞輪寺界隈
 第四章  黄昏橋

 二人の若者が駒込追分町の下宿から出て谷中の天王寺町を目指して歩き出したあの日から、およそ三十日あまりの日数が経った三月の初め、同じ二人の若者が今度は下谷の上根岸町の家を出て谷中墓地の樹々の間を抜けようとしていた。
 一月前(ひとつき)あんなに意気軒昂としていた怒り肩の四角い若者はガックリと肩を落としている。その落とし様は隣りにいる猫背気味の若者よりももっと丸まっているほどだ。

 
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