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2002年11月号 掲載
第19回 王子紀行(その一)
文/井上 明久  画/藪野 健

子規時代の松山中学唯一の遺構「明教館」。
在校生が太平洋戦争末期の空襲の火災から守った。
 同じ明治二十七年八月に書かれた「王子紀行」の書き出しは、次のようである。
 「去る十三日の其日もはや七つ下りの頃鳴雪翁われをおとづれて王子の祭見に行きなんや、云はれ不折子をも伴ひ翁に供して上野に至る。余不折子に向ひて戯れて今日の遊び晝と俳句と腕を競べんかと云ふ、不折子曰く諸と。忍川に夕餉したゝむ。」
 鳴雪翁とは毎度お馴染みの内藤鳴雪のことで、その鳴雪が七つ下りの頃というから午後四時すぎ頃、王子の祭を見にいこうと子規を誘いにきたというわけである。八月中旬の午後四時ならまだ充分に明るいだろうが、途中で軽く早めの夕飯でも食べて、それからのんびりと祭の場に着く頃には日も少しずつ昏れかけて、ポツポツと提灯に灯が入って祭気分も盛りあがろうという心積り、といったところだろうか。それならばというので、子規は不折子をつれて鳴雪と三人で根岸の子規庵を出かけることになったのだ。
 ところで、ここで子規のいう不折子とは、洋画家で書家の中村不折のことで、子規庵とは狭い道を挟んでほぼ向かい合った場所に住んでいた。不折は子規よりも一歳年上の慶応二年(一八六六)生まれで、小山正太郎、浅井忠らに洋画を学び、渡仏して画域を広め、後に太平洋画会を設立した。そして、新聞挿画の世界に初めて進出した画家でもある。また、六朝風の書家としても著名で、昭和十一年(一九三六)には書に関する一万二千点を蔵する書道博物館を自宅邸内に開館した。収蔵品に重文級の貴重品が多いことで知られているこの書道博物館は、無論、現在も現役の博物館として多くの観客を集めている。
 明治二十年代から子規が亡くなる明治三十五年まで親しい交わりを続けながら子規と不折の住んだ家の跡が、ホンの僅かな距離の間に、それぞれ子規庵と書道博物館として平成の現在まで存在しつづけているというのは、この移ろいやすい東京という町では一種の奇蹟だと言えるかもしれない。もう一つ不折に関して言えば、明治三十八年十月、服部書店・大蔵書店から出版された夏目漱石の処女作『吾輩ハ猫デアル』上編の挿絵を描いた人として、日本文学史に長く記憶されている。
 王子の祭を見にいくに際し、余興として絵と俳句の腕くらべをしようではないかと、子規が不折に向かってもちかけ、不折がそれに応じる。子規やその仲間たちは、恐らく年中こんなふうな遊びをしていたのだろうな。無論この場合、絵と俳句では表現手段が違うのだから腕をくらべるといっても、その評価は下しにくいだろうが。ま、そこは最初から遊びと割りきって。
 しかし、ある種の即興性を必要とする俳句作りにはこういった遊びが大事でもある。一つの情景を前にして、せーので始めて一定の時間内に、不折はそれを写生画にし、子規はそれを写生句にする。そんなことが互いの表現技術の研磨に役立ったに違いない。
 話は大きく脱線するが、「あけぼの」の表紙を毎号美しい絵で飾り、拙稿「東京の子規」にもしばしば趣ある絵を提供してくださる画家の藪野健さんとは、この子規と不折のように、よくいろんなところに御一緒する。ただし僕の場合は子規の俳句と違ってその場で完成させることはできないので、せいぜいメモをとるなり感じたことを短い言葉でおさえておくぐらいである。そこで、藪野さんの隣りにすわって絵の制作過程をじっくりと見させていただくことになる。これが実に楽しい。楽しいばかりでなく実に感動的である。そして感動的なばかりでなく実に深く教えられる。ものを見るということはどういうことか。それを線と形と色で表現するということはどういうことか。一つのフレームの中で何を取りあげ何を捨てるか。何と何を結びつければより美しさは強調されるか。そうした一つ一つが藪野さんの腕の動きを見つめることによって少しずつ見えてくるのだ。

 
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