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2005年04月号 掲載
第48回 三島への旅〈その四〉
文/井上 明久


 箱根湯元で、客引きの甘言についつい乗せられて、「だまされてわるい宿とる夜寒かな」の子規だったが、それも風流の一興と楽しんで、次の三島へと向かう。繰り返すが、明治二十五年十月、子規二十五歳の秋のことである。
 そして繰り返し引用すれば、「旅の旅の旅」では、
「三島の町に入れば小川に菜を洗う女のさまもややなまめきて見ゆ。
  面白やどの橋からも秋の不二」
 と書かれている。
 箱根の山中をふうふう言いながら歩き廻った後に、東海道の宿(しゅく)で名高い三島の町中に入れば、そりゃあ子規ならずとも「小川に菜を洗う女のさま」がなまめいて見えるというものだろう。ましてや全身全霊を 風流 の一語に結実せんと思いきり全開させている子規のことだ。その目に、その耳に入ってくる往き交う人の姿や語らいのさんざめきに、大きく心が躍ったに違いない。とりわけ女性のさまは若者の心に深い印象を残したろう。
 実際、三島という町は平成の今でも、町自体が「ややなまめきて見ゆ」というところがある。それは何と言っても町中を流れている水の澄明さのせいであり、さらに何と言っても町中から一望できる富士の比類なさのせいである。
 透き通った水の流れは、清らかで優しく、たおやかで美しい女のようであり、厳然と聳える富士の姿は、堂々として大きく、凛として動かぬ男のようである。そんな女と男が向かい合っているのが三島の町で、だから自ずとなまめいて見えるというものなのだ。
 三島で子規は当然ながら早速に三嶋大社を訪れる。
「三島神社詣でて昔し千句の連歌ありしことなど思い出だせば有り難さ身に入(し)みて神殿の前に跪(ひざまず)きしばし祈念をぞこらしける。
  ぬかづけばひよ鳥なくやどこでやら」
 三嶋大社は伊豆国の一の宮として、古くから人々の信仰を集めてきた。旧東海道に面した石の大鳥居をくぐると桜並木の参道があり、左右には神池と呼ばれる心字池が広がっている。そして総門の先には、本殿、幣殿、拝殿が荘重なおもむきで建っている。  伊豆の韮山(にうやま)で流人生活を強いられていた源頼朝が、平氏追討の心願を立てて、百日間この三嶋大社に日参したことはよく知られている。韮山から三島へは北におよそ二里。そうした毎日の参詣の折りに、頼朝が休息のために腰を下ろしたとされる腰掛石が境内にある。粗いタッチではあるが、腰を乗せる部分と背もたれの部分がちゃんと椅子の形に削られていて、なかなか面白い味わいの石である。
 また、頼朝の日参に時々は妻の北条政子も同行したのだろうか。頼朝の腰掛石の隣りには、政子の腰掛石というのがある。背もたれの部分も頼朝のよりはずっと低く、石の向きも夫の斜めうしろから座る形になっている。夫唱婦随、好一対の石である。とはいえ、頼朝の死後、尼将軍として鎌倉幕府を率いた北条政子のことだ、見た目の形だけで判断はならないのだが。
 ところで、引用した子規の句は、拝んでいたらどこからかひよどりの声が聞こえてきた、という事実を詠んだものかもしれない。しかしそれはそれとしてこんな想像は奇矯すぎるだろうか。三嶋大社が頼朝ゆかりの場所であることは子規は百も承知だろうし、頼朝とくれば義経だ。
 社前で目をつぶり手を合わせていた子規の頭に、義経哀れの想いが湧いたとしても不思議はない。義経のイメージはごく自然に鵯越(ひよどりごえ)の逸話へとつながっていったろう。その時、子規の頭の中でひよどりが鳴いたのだ。単に事実を詠んだ句と限定してしまうと、「ひよ鳥なくや」の後の「どこでやら」がいかにも平凡でつまらない。けれど、義経のひよどりが鳴いたのかもしれないと思うと、「どこでやら」の結句が時空を超えて限りなく大きく広がっていく。
(この項、続く)

 
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