- 伊予鉄道三津浜駅 -
子規と漱石が同年生まれであることはよく知られている。どちらも慶応三年(一八六七)生まれで、翌慶応四年が明治元年となるので、明治の年数とその人の満年齢とが一致してはなはだわかりやすいのが有難い。つまり、明治十二年なら十二歳、明治三十五年なら三十五歳というわけだ。
ところで、この慶応三年生まれの人間には、近代日本文学史を飾る文豪として子規と漱石の他に、もう二人いる。尾崎紅葉と幸田露伴である。
そしてこの四人の人生、まさに四者四様、実に対照的なのだ。下手なドラマで仕組んだら、オイオイ、そんなあざとい芝居作りじゃあまりにも嘘くさいぜ、とたちまち文句が出そうなほどに、鮮やかすぎる対照がそこにはある。しみじみと、人生はいろいろなのだ、と思わせてくれる。
早熟の天才は、紅葉と露伴の二人だ。明治二十二年、二十二歳の時、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』で、露伴は『露団々』『風流仏』でデビューし、たちまち有望新進作家の地位を得る。その年の十二月、二人は揃って読売新聞社に入社。翌二十三年には、紅葉が『伽羅枕』を、露伴が『ひげ男』を同紙に並んで連載し、早々と世に「紅露時代」と称されるようになる。この時、残りの二人、子規と漱石は単なる無名の大学生にすぎなかった。
このことは以前に本稿「東京の子規」で少し精しく述べたことだが、明治二十五年、『風流仏』に影響を受けた子規が小説『月の都』を書き上げ、谷中に住む露伴を訪ねてその評を乞うということがあった。つまり、二十五歳の男が二十五歳の男に、先生、私の作品は如何なものでしょうか、と尋ねたことになる。改めて言うが、この辺に子規の大人(たいじん)ぶりがある。子規の豪気さ、鷹揚さがある。
そして、実はこの出来事は後の日本文学史に極めて大きな結果をもたらすことになる。それは俳人子規、歌人子規の誕生である。どこまで本気だったかはわからぬにしても、この時の子規は小説家になりたかった。だから『月の都』を物し、影響を受けた露伴に批評を仰いだのだ。けれどその評が芳しくなかった。ここがまた子規の桁外れぶりなのだが、恐らく露伴の評に深く信を置いた子規は、小説家を断念し俳人・歌人として生きることを決意するのだ。
明治二十五年、四人の二十五歳の若者の内、紅露二人は華々しい人気作家、子規はいよいよ己れの運命を俳道・歌道に定めて新たな一歩を大きく踏み出し、ひとり漱石のみ未だ自分の何者かを見出せずに闇の中にいた。
それから十年、歩行ままならぬ身で激しい病苦と闘いながら、近代俳句史、近代短歌史に巨人的足跡を残して子規は明治三十五年、三十五歳で逝く。漱石は遠く異国ロンドンの暗い下宿に暮らしながら、英文学とは何かを掴(
)もうともがいては周囲から「夏目狂セリ」と見られていた。
翌明治三十六年、『金色夜叉』で当代筆頭の盛名を得た紅葉が三十六歳で没する。若き日から文学結社「硯友社」を率い、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声の三羽烏をはじめとして数多くの門弟を育てた紅葉の葬儀は実に盛大で、青山斎場を埋めた会葬者の行列は五町も六町も続いたという。
紅葉がこの世を去っていったのがまるで引き金になったかの如く、紅露の一方の雄である露伴は、この年に「読売新聞」に『天うつ浪』を連載するが、この作品を最後にほぼ小説の筆を断つことになる。つまり、紅葉が死んだ明治三十六年に、小説家露伴も死んで、それから先はもっぱら史伝や考證といった学問の徒になっていく。そしてこの年、漱石はイギリスから日本へと帰ってくる。
子規が死に、紅葉が死に、露伴が小説の世界から去った後、二周も三周も周回遅れになってやっと明治三十七年、漱石は『吾輩は猫である』を書き出す。それから次々と話題作、傑作、名作を生み出して僅か十二年、満五十歳に満たずに大正五年に永眠する。
四人の内で残った露伴は、慶応、明治、大正と生き抜き、昭和も戦前はおろか戦後二年目の昭和二十二年まで長寿を保つ。露伴、ちょうど八十歳だった。葬儀は当時露伴が住んでいた市川で行われたが、実は荷風もその極く近辺に暮らしていて、式場近くまで行くが礼服を持っていないために中に入るのは遠慮したということが『断腸亭日乗』に記されている。
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