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2004年06月号 掲載
第38回 畏友 夏目金之助
文/井上 明久

谷中永久寺
 初期の子規を知るうえで欠かせない文献に『筆まかせ』がある。子規が上京した明治十六年六月から半年少し過ぎた明治十七年二月から書き始められ、明治二十五年九月までの八年半にわたる、さまざまな分野における文章を集めたものが『筆まかせ』で、年代順に第一編から第四編まで分類、編集されている。なおタイトル表記としては、筆まかせの他に、筆まか勢、筆満か勢、筆任せ、筆任勢、不手満加勢などが使われている。
 第一編に収録された明治二十二年の文章に、「交際」と題された一文がある。
 「余は交際を好む者なり 又交際を嫌ふ者也 何故に好むや 良友を得て心事を談じ艱難相助けんと欲すれば也 何故に嫌ふや 悪友を退け光陰を浪費せず 誘導をのがれんと欲すればなり 余ハ偏屈なり 頑固なり すきな人ハ無暗にすきにて嫌ひな人ハ無暗にきらひなり」
 自からの生来の質が偏屈で頑固な故に、人に対する好き嫌いがやたらと激しいことを子規は自覚している。そんな子規が友を選ぶ規準は次の二つだという。第一が人物、第二が学識。この鑑定でいくと、正直で学識がある人が第一等の友(だが、なかなかいない)、学問はまあまあだが正直な人が第二等の友(多くの友はこれに属す)、学問はあるが不正直で利己心の強い者は第三等の友(これとはやむをえない場合以外は交わらない)、といった塩梅(あんばい)になる。現代にも通じる、いや古今東西に通じる友人選択法ではないか。
 この短文の最後に十九人の友人の名前を掲げ、その一人一人に子規は愛称を与えている。例えば愛友、好友、益友といったように。そうした中の一つに、「畏友 夏目金氏」とある。他に、厳だの、高だの、敬だの、賢だのといったものがあるのと比較して、子規が夏目金之助に対して何故(なにゆえ)に「畏」を選んだかは定かでないが、とにもかくにもあの鼻っ柱の強い、親分肌の子規をしてなにがしか「畏」を感じさせるものを、若き日の漱石が持っていたことは確かだろう。
 子規と漱石が交際を始めたのは、明治二十二年一月のこととされている。それ以前、互いを知らなかったかというと、無論、そんなことはない。明治十七年に大学予備門に入学し、その後明治二十年には一高へと同じ道を歩み、学生数の極めて少なかった当時のこと、教室で、キャンパスで、学校近辺の路上で、出くわさなかったはずはない。顔と名前は知っていたに違いない。「交際」の文中に、こうある。「余ハ進んで交ることをせざる男也 故に三四年顔をつき合しゐる男にても交際せぬもあり」
 実際、子規と漱石の関係もこのようなものであったのだろう。ところが、先の文章のすぐ後に子規は、「機会を得れば一朝の会話十年の交際にまさることあり、兎に角、交際を始めたらば熱心に交際する方也」と続けている。このことを実証しているのが、これまた漱石との関係である。十年の交際にもまさる一朝の会話を持つ機会が、子規と漱石の間に起こったのである。


 明治四十一年九月の「ホトトギス」に掲載された談話「正岡子規」の中で、漱石はこう語っている。「彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近よつて来た。」
 こうして始まった子規と漱石の、いや正確を期せば正岡常規と夏目金之助の交際は、日を追って深まりと真摯さを増していき、明治三十五年九月十九日の、早すぎる子規の死までおよそ十三年間にわたって続くことになる。けれども、無論その間、二人はいつも会えていたわけではなかった。いやむしろ、会えぬ時の方が長かった。何故なら漱石は明治二十八年に東京を去り、松山、熊本、そしてイギリスはロンドンに、西へ西へと我が身を運んでいたからである。そのために、子規の訃報を漱石は遠い異国の地で受け取ることになるのだ。

 
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