2001年07月号 掲載
どの傑作を著し、先輩であるニ葉亭四迷、森鴎外、尾崎紅葉に伍して文壇の一角に確かな地位を築いていた。
長命寺
「白髭と隣り合ってる長命寺」(柳多留)今は保育園になっている。震災や戦災で焼け、
建物は新しいが、芭蕉の雪見の句碑などがある。寺の裏手に有名な山本屋という桜餅屋がある。
江戸時代以来の店というから向島・長命寺境内の桜餅屋「月香樓」はこの店のことだろう。
子規は恋愛をしたのだろうか?
二十九歳から、三十五歳で死を迎えるまで、ほとんど身動きもままならなかった病床生活の中で子規は結局、生涯、妻をめとることがなかったばかりか、それらしい恋愛の形跡すら残していない。限られた時間を俳句と短歌の革新運動に専心しなければならなかったせいなのか。あるいは、質樸豪気な人格にはそうしたことを敬して遠ざける傾きがあったからなのか。
けれどもここに、短い子規の一生の中で一点、ほんのりと淡く、うすべに色に染めあげられた時間がある。子規、二十一歳の青春である。
桜餅屋「月香樓」
十六歳で上京した子規は、その後、寄寓場所をいくつか転々とするが、明治二十年四月、一ツ橋にあった第一高等中学校の寄宿舎に移る。そしてその翌年、明治二十一年の夏休みを子規は向島・長命寺境内の桜餅屋「月香樓」ですごすことになる。四歳年下の従弟にあたる藤野古白らと一緒に、俳句や短歌を作り随筆を書くといった文学三昧の日々の結晶は、後に『七草集』の一部になるのだが、この時期、この店の娘・お録(あるいは、お陸)に子規は恋心を抱いていたという。
「この『七草集』を書いた時に、そこの桜餅屋の娘と子規との間に、或るローマンスのあった事は、其の後四五年も経って後に初めて聞いた。異性に対するローマンスというものを余り持たない、持たないというより殆んど絶無であった子規の一生に、このエピソードは砂漠中のオアシスのような恵みを思わせる」(河東碧梧桐『子規の回想』)
恐らくは、子規の一方的な想いでしかなく、自分の胸中を打ち明けることもなく終わってしまったであろうような片恋であったに違いないが、店先で甲斐甲斐しく立ち動く娘の若々しい躍動感や、時折り垣間見せる乙女らしい憂愁の影を、子規はその後も長いこと忘れなかったはずである。というのも、いや、それは後にして、この時に作られた歌を一首だけ挙げておくと、
夏日向島閑居
檐(のき)の端(は)にうゑつらねたる樫(かし)の木の
下枝(しずえ)をあらみ白帆行く見ゆ
ところで、さきほど「子規はその後も長いこと忘れなかったはずである。というのも」と書いたが、それは次のようなところに表われているような気がしてならない。例えば、二十一歳の夏から十二年経った明治三十三年、子規はこんな短歌を作る。
くれなゐのとばり垂れたる窓の内に
薔薇(ばら)の香(か)満ちてひとり寐る少女(おとめ)
この歌は、「艶麗体といふ題にて」という詞書に添えられて作られたものの一首で、そこに歌われた世界はあくまでも作為的であり、技巧的なものであるだろう。つまりは、まるで映画のセットを作るように、己れの夢とする美なるもの、艶なるものを集め持ってきて、そこに小宇宙(ミクロコスモス)を創造する行為である。そして、それは、子規が本来掲げた写生とは少しく質の異なる類の歌風にも思えなくはない。それだけにかえって、隠された子規の本然的な想いがここに託されていはしないか。
あるいは、この歌が作られた前年、明治三十二年一月の『ホトトギス』に載った、「夢」と題された短い短い文章は、どうか。
「先日徹夜をして翌晩は近頃にない安眠をした。其夜の夢にある岡の上に枝垂桜が一面に咲いていて其枝が動くと赤い花びらが粉雪の様に細かくなって降って来る。其下で美人と袖ふれ合うた夢を見た。病人の柄にもない艶な夢を見たものだ。」
弘福寺門前で
紅の帳(とばり)がおりた部屋の中でひとり寝ている少女も、枝垂桜の花びらが散る下で出逢った美人も、あるいは遠い日の向島・長命寺のあの娘への追憶であったかもしれない。そして、それはまた青春の真只中にいた、若くて、未だ病気を知らなかった頃の子規自身への果敢ない追憶でもあったに違いない。
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