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2002年05月号 掲載
第13回 高尾への道〈その二〉
文/井上 明久  画/藪野 健

藪野 健画
 子規の「高尾紀行」は、次のような書き出しで始まる。
「旅は二日道連は二人旅行道具は足二本ときめて十二月七日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありき促せば風邪の鼻すゝりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける。」
 二日、二人、二本と二並びで書き起こすところは、調子の快さと躍動感があっていかにも子規らしい。当時、東京から高尾山までの旅は八王子での一泊を要する二日がかりのちよっとした小旅行であった。 道連二人というのは、子規と例の翁、すなわち内藤鳴雪。本郷真砂町にある「常盤会寄宿舎」の監督を勤める鳴雪を子規が訪れ、高尾山への吟行に誘ったのである。 明治二十五年師走七日の朝のことであり、この時、子規二十五歳、鳴雪四十五歳。俳句においては、青年子規に翁と呼ばれる鳴雪の方が弟子であり、鳴雪からすれば自分の子供の世代にも等しい子規の方が師匠であった。 外見とは裏腹なそんな珍妙な二人が、無論新宿から八王子までは汽車だが、それ以外は己れの足二本だけでの旅に赴いたというわけである。
 現在の八王子は多くの大学が集まる学園都市として大きな変貌を遂げているが、もともとは甲州街道の宿場町で、絹織物の機業そして集散地として賑わいを見せていた。従って、汽車を降りて早々に子規はこう描写している。
「八王子に下りて二足三足歩めば大道に群衆を集めて声朗かに呼び立つる独楽(こま)まはしは昔の仙人の面影ゆかしく負ふた子を枯草の上におろして無慈悲に叱りたるわんぱくものは未来の豊太閤にもやあるらん。」
 駅頭には大道芸人がいて、多くの人を集めていたというわけである。もっとも、とは言え東京に比べればそこはやはり「田舎といへば物事何となくさびて風流の材料も多かるに」という印象が強かったであろう。 そんな興趣に促がされて子規と鳴雪は次々と句を詠じながら、高尾山を登り、飯縄権現に謁で、山を下りて八王子に一泊し、翌日は日野駅から百草の松蓮寺、高幡不動を巡り、玉川を一の宮の渡しで渡り、府中で六所の宮に参った後、国分寺から汽車で新宿に帰るという旅程をたどったのである。
 ところで、この「高尾紀行」なる一文は、明治二十八年九月に日本新聞社より刊行された『獺祭書屋俳話』に収録する際に改題改稿したもので、そもそもは十二月七日八日の旅行から数日後の十一日と十四日に、「馬糞紀行」と題して新聞「日本」に発表された。 その際の改稿で最も興味深いのは、タイトルを変えたことと、前回に引用した鳴雪の「新宿や 馬糞の上に 朝の霜」という句を削っていることである。この二つはいずれも子規の明確な意図の下に行われていると言っていいだろう。それは「高尾紀行」の終わり方を見れば理解できる。


飯縄権現

高尾山のケーブル駅
 「家に帰れば人来たりて旅路の絶風光を問ふ。答へていふ風流は山にあらず水にあらず道ばたの馬糞累々たるに在り。試みに我句を聞かせんとて」と言って、すべて「馬糞」の二文字が入った五つの句を並べ、「と息もつがず高らかに吟ずれば客駭(おどろ)いて去る」。 つまり、高尾の旅は如何でしたか、さぞかし美しく風流だったでしょうという問いに、いや、馬糞に勝る風流はありませんよと答えて、相手のびっくりする顔を見て楽しんでいるのだ。 諧謔家・子規は一編の“オチ”として、話の“ツボ”として、「馬糞」を使っているわけである。それをより強調するためには、その効果をより発揮するためには、「馬糞」の二文字をなるべく最後まで秘しておかねばならない。一編の本意をそう簡単に明かしてはいけない。 従って、タイトルは「馬糞紀行」から「高尾紀行」へと変え、もともとは一文の冒頭近くに引かれていた鳴雪の馬糞を詠んだ句を削除したわけである。実際の旅行からほとんど日を経ずして発表された「馬糞紀行」がドキュメント的な紀行文だとすれば、それから三年近く経って改稿された「高尾紀行」は結構を整えた一編の創作になっている。 表現者としての子規の進歩がここに見られる。

 
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