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2001年04月号 掲載
第2回 道灌山の婆の茶店<その一>
文/井上 明久  絵/藪野 健
 道灌山(どうかんやま)と言っても、その場所のありかをすぐにピーンと思い当たる人間は、東京で暮らしている者でも割と少ないのではないかと思う。地名としては間違いなくマイナーであり、あるいは死語に近いかもしれない。しかしながら、江戸から明治にかけてはこの地は有数の観光名所だったのである。そして、我が母校の開成学園の校歌は、「常盤の緑、色映えて、道灌山の学び舎に、憧れ集う若人が……」で始まるのだから、実はなかなかの場所なのである。
 と、愛校精神を発揮したところで話は脱線するが、開成学園のそもそもは明治四年、神田淡路町に佐野鼎が共立学校の名で創立したことに始まる。明治十六年六月に松山から上京した満十六歳の正岡升(のぼる)少年は、この共立学校に入学するのだから、子規は僕にとって遠い遠い先輩ということになる。
 閑話休題。道灌山とは、上野の台地と王子の飛鳥山(あすかやま)の間に横たわる一帯で、現在の地名で言えば、日暮里から西日暮里を経て田端にかけての台地ということになる。そして、その最も高い部分が開成学園の大グラウンドがある辺りになる。道灌山の名の由来は、江戸城を築いた太田道灌の出城がこの地にあったことにより、従って地元の古い人達は単に城山と呼んだりもしている。


創立当時の共立学校
 江戸っ子や明治の東京人が競って道灌山を訪れたのは、何と言ってもその眺望絶佳な見晴らしの良さにあった。この崖上に立てば、近くは浅草、三河島、尾久、遠くは日光、筑波の両山や下総国府台、そして品川の海までが一望に見えたという。また、ここは虫聴(むしさき)の名所としても有名で、江戸名所図絵などに描かれている趣きに富んだ場所でもあったのである。
 明治二十八年の十二月、子規は虚子を連れて、この道灌山を訪れている。しかし、子規にとってこの時の道灌山は、その冬枯れの風景とともに、苦く悲しい思い出となってしまう。それは師・子規と弟子・虚子が独立した一個の人間同士として向き合った瞬間のドラマであった。日本近代の俳句史上における一つの大きな出来事が、この道灌山を舞台にして行われたのだ。
 明治二十二年五月九日の夜に初めての喀血を見た子規は、年々その病が嵩じ、内なる壮大な野心と外なる壮絶な運命との間で激しく揺れ動きつつ、少しずつ折り合いをつけねばならなかった。子規は自分が創始した近代俳句の革新運動を完成させるまでの命がないことを知った時、その仕事を後継し推進させる者として虚子を選択する。
 根岸の子規庵から道灌山まで一キロ以上の道のりを、すでにかなり歩行困難になっていた子規が、しかも寒い冬の日に、杖を突き突き登っていった姿を想像すると、何か胸迫るものがありはしないか。そうまでして子規が虚子を外へ連れだしたのには、あの狭い子規庵では母の八重や妹の律の耳に入ることを憚ったのかもしれず、またそれ以上に子規の大いなる願いを語るには広々として遠望のきく場所を必要としたに違いない。
 「稲は刈り取られた寒い田圃を見遙(みは)るかす道灌山の婆(ばば)の茶店に腰を下ろした時、居士(子規)は、『お菓子をおくれ。』と言った。茶店の婆さんは大豆を飴で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、『おたべや。』と言って其を余に勧めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷(ひやや)かに落着いて来た。何も言わずに唯居士の唇の動くのを待っていた。」(高浜虚子『子規居士と余』)
 この後、私の後継者になってほしいと子規は虚子に向かって切り出すのだが、そのことに大いなる名誉とともに大いなる呪縛をも感じていた弱冠二十二歳の青年虚子は、師の申し出をきっぱりと断ってしまう。
 「もう二人共いうべき事は無かった。暮れやすい日が西にうすづきはじめたので二人は淋しく立ち上がった。居士の歩調は前よりも一層怪し気であった。御院殿の坂下で余は居士と別れた。」(同前)


佃煮舗
中野屋/電話03-3821-4055

諏方台通りから御殿坂に折れた左側にある。江戸前の味付け。大正12年10月からここで営業。


諏訪神社社殿

経王寺山門に残る戊辰戦争の弾痕


日暮里駅に向かう 諏方台通の四軒長屋。




諏方台通り 画/藪野 健

 
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