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2005年08月号 掲載
第52回 早稲田の田圃〈その一〉
文/井上 明久

- 節安  田圃とプール -
 子規にいわゆる三大随筆がある。『墨汁一滴』、『病牀六尺』、『仰臥漫録』がそれである。その内、年代的に一番早い『墨汁一滴』は、明治三十四年一月十六日から同年七月二日まで、「日本」紙上に掲載された。明治三十五年九月十九日の子規永眠の前年のことである。
 毎日毎日、日録として綴られた文章は、タイトル通り墨汁を一滴垂らしただけのものもあれば、途中何度か筆に墨を付け直したであろうものまで多様である。そのあたりのことは、子規自らが一月二十四日の紙上でこう書いている。
 「年頃苦みつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強くなりて今ははや筆取りて物書く能はざる程になりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。斯くては生けるかひもなし。はた如何にして病の牀のつれづれを慰めてんや。思ひくし居る程にふと考え得たるところありて終に墨汁一滴というものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。」
 不意に亡くなったのではなく、宿痾が時間を追って一方向に進行して死に到達した子規のような場合、死の前年ともなればその苦境の切迫たるや想像に難くない。そんな中で書くことが、書くことだけが子規の生きがいであり、慰めであった。仮に墨汁を一滴垂らすだけの体力しか子規に残されていなくても、その一滴の墨汁が子規の気力を支え、高めたのである。書くことが、つまり紙の上に文字を連ね文章を作成することがいかほどの大事業であるかは、無論、一般化はできないし、また一般化してしまったら誤りも出てくるが、ただ子規の場合は、とりわけこの時期の子規にとっては、書くことは大事業だったと言って間違いないだろう。
 とは言え、子規の書くものが力み返っているわけではない。厳粛悲壮がっているわけではない。むしろ飄然気儘、闊達自在な趣がある。もっと言えば、四六時中いつも痛みに苦しめられているにもかかわらず、子規の書くものには突き抜けた大空のような伸びやかな広さが感じられる。無心で囀る小鳥のような清澄な明るさが感じられる。そこが子規の凄さであり、偉さである。そして、読む者からすればそこが子規の面白さである。
 歌や句を論じたもの、市井のニュース、思い出、時事問題、歴史への考察、言葉について、食べ物の話題などなど、『墨汁一滴』で扱うジャンルは実に幅広い。そして時折りは、絶えず子規を苦しめている耐え難い痛みに対する痛罵も吐かれる。しかし、それは弱々しい泣き言ではなくて、苛酷な運命に対して言葉で立ち向かっていこうとする必死な姿勢である。例えば、四月十九日の全文を引用すれば――。
 「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時は仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙つてこらへて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少し痛が減ずる。」
 書くことは、子規にとってうめく
ことであり、叫ぶことであり、泣くことであった。そうやって、少しだけ痛みを減らしていたのである。  ガラッと中味は変わるが、五月三十日の文章はこんな風に始まる。
 「東京に生れた女で四十にも成て浅草の観音様を知らんと云ふのがある。嵐雪の句に
   五十にて四谷を見たり花の春
と云ふのがあるから嵐雪も五十で初めて四谷を見たのかも知れない。これも四十位になる東京の女に余が筍の話をしたらその女は驚いて、筍が竹になるのですかと不思議さうに云ふて居た。この女は筍も竹も知つて居たのだけれど二つの者が同じものであると云ふ事を知らなかつたのである。しかしこの女らは無智文盲だから特にかうであると思ふ人も多いであらうが決してさう云ふわけではない。」
 と書いたすぐ後に、いきなり漱石の名前が登場するのである。
〔この項、続く〕

 
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