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2002年10月号 掲載
第18回 三ノ輪、三河島、日暮里
文/井上 明久

本行寺

諏方神社


 「上野紀行」と同じ明治二十七年八月、子規は「そぞろありき」なる一文も発表している。それはこんな風にして始まる。
 「さわがしき世の中に草の庵一つ静かに住みなして暁の夢ひやゝかに覚むれば竹垣に這ひつきし朝顔の花は此處彼處に二輪づゝ咲きて短き命のさても美しき色かな。斯く疾く起き出でたるも我にはいと珍らかなるに郊外の景色見んも興あめりと庵を出づ。」
 改めて言うのも愚かなことだが、簡潔明瞭で、でもどこかに哀れな情趣があって、子規の散文はいいなと思ってしまう。朝顔の花に短き命を見るのは詩心の常道ではあるが、子規がそれを書くともう一段深い味わいがあるように思えてくる。もっとも、正直に言えばそこには多少の贔屓目がないわけではないけれど。
 根岸の子規庵を出た子規は、音無川に沿って御行の松を曲がり、まずは三ノ輪(箕輪)を目指す。まだ早朝のせいで、延々とつづく青田には朝霧が立ちこめている。ようやく太陽が雲間から顔を出す。
 「家々やうくに起きて百姓も未だ野に出でず。妻はむさくろしき寐衣に細帯のまゝに米磨ぐさまなど面白し。溝川あり橋あり藁の檐いたく傾きたるも興あり。」
 三ノ輪の町はずれから左に道をとり、子規は三河島(三河嶋)に向かう。辺りはずっと田畑の連なりで、人家も稀な寒村ばかりである。途中、石垣の上に鼻が欠け錫杖が折れた石地蔵が置かれていて、野路の哀れを誘われ旅に出たい心持ちになったりする。
 「門稍々深く松二三株を植ゑたる寺あり。観音寺といふ。
  松葉落ちて 雀鳴くなり 観音寺 」

 現在、明治通りに面して建っている観音寺は、寛政十年(一七九八年)、十一代将軍家斉が鶴御成りの際、当寺を御膳所にあてて以来、明治維新に至るまで将軍家の御膳所として使われつづけてきた寺である。江戸期、三河島付近は鶴の生息地として名高く、鶴御成りは特に八代将軍吉宗から数代、百五十年にわたって行なわれたものである。
 三河島を出た子規は日暮里火葬場を通り、汽車道を横ぎって丘上の道をたどり、諏方神社に詣でる。
  大木の 注連に 鳴く 社かな
  石壇は 常磐木の落葉 ばかりなり

 現在の都内にあって、この諏方神社は明治も今も変わっていないのではないかと思わせるほど、静かで神さびた佇まいをしている。もっとも、江戸や明治の頃にはこの神社の境内には何軒もの茶屋があって、花見時などはことに賑わったということだから、その頃よりもかえって今の方が寂しいくらいかもしれない。ここは境内の端が道灌山の切り立った崖上になっているため、素晴らしく見晴らしがいい。またこの崖上からは、山手線、京浜東北線、東北・上越新幹線、宇都宮線、高崎線、常磐線、京成本線といった数多くの路線の、色とりどりの車体の電車が通りすぎていくのを見ることができる。
 「本行寺の前よりうす暗き坂を下りて根岸に入る。」
 月見寺という風雅な別名を持った本行寺は、現在のJR日暮里駅西口の目の前にある。小林一茶が吟行に旅立つ折にこの寺を定宿にしていたということで、「陽炎(かげろう)や道灌どのの物見塚」の石碑が本堂前に建っている。それと向き合う形で、種田山頭火の「ほつと月がある東京に来てゐる」の句碑も建っている。子規の言う「うす暗き坂」というのは本行寺前の御殿坂のことで、この坂には全く逆のイメージの乞食坂という別名もある。もっとも御殿があるから乞食が寄りつくので、表裏一体で矛盾はないのかもしれない。
 子規庵に帰り着いた子規の目に、まだ萎まずに咲いている朝顔の花がいじらしく見える。
  朝顔や われ未だ起きずと 思ふらん

 
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