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2002年03月号 掲載
第11回 神田猿楽町の下宿〈その三〉
文/井上 明久  画/藪野 健

伊東忠太設計の九段会館(旧軍人会館)
 もう一度、前回の冒頭に引用した句をここに挙げる。
  朝霧の 中に九段の ともし哉
 ここで子規の言う「九段のともし」とは、常燈明台(じょうとうみょうだい)のことである。 九段下から坂を登る。牛ヶ淵の濠の先に、日本武道館へと通じる田安門が見えてくる。 そこに近い靖国通り沿いの植え込みの中に、常燈明台は建っている。 堅固な石積みの台の上に二層の望楼がある。屋根の上に金色の大きな玉が載っていて、風見の矢が風を受けて動いている。高さは二十メートル近くあるだろうか。



 もっとも、子規が見た常燈明台は、この位置にあったものではなかった。 ここに移されたのは昭和五年で、道路改修にともなってのことであり、それまでは九段坂をはさんで現在とは真向かいの辺りにあった。 つまり、明治四年に靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた御霊を迎えるために正式には高燈籠(たかとうろう)というこの常燈明台が建てられた時は、当然ながら神社の社前にあったわけである。 明治から大正の人々は、靖国神社を訪れる際、大鳥居の手前に建つこの常燈明台を必ず目にしたわけで、無論、子規もそうした一人であった。
 高い建物が珍しかった当時の東京で、それが如何に喜ばれたかは、九段坂を対象にした明治から大正時代にかけての錦絵、写真、絵画に必ずと言っていいほどこの常燈明台がとりいれられていることを見てもわかる。 また、文章としては『東京名所図絵』の中にこうある。 「常燈明台は有名なるものにして、九段の坂の上、偕行社の構内の南角にあり、種々の丸石をセメントを以て積み上げ、上を角石にて畳み回欄を施し、最上に四面ガラスを以て鎖せる室を設け、内に灯器を備ふ、最頂には、東西南北を示せる指鍼を附せり、毎夜必ず点灯す、遠く之を望むに大星の如し、故に品海、暗夜の標望となり居りといふ。」
 この文章の最後にある「遠く之を望むに大星の如し、故に品海、暗夜の標望となり居りといふ」という描写に、当時の東京のありさまが彷彿として浮かび上がってくるような思いがする。 とにかく、その頃の東京の夜は暗かったのだ。人は夜明けとともに起き、日暮れとともに眠る生活を送っていたのだから。 漆黒にも近いそうした暗夜の中に、九段の坂の上に高い高い望楼が立っていて、そこに一晩中、赤い灯が点っていた。それが常燈明台なのである。
 従って、真暗な周囲の中に一点、煌々と輝く夜の常燈明台こそが句や歌の対象になりやすいのだが、またそこにこそ常燈明台の特質が最も表われているのだが、子規はそれを「朝霧の中に」詠んだ。月並みを嫌う後年の反逆がすでに芽吹いていたからだろうか。 あるいはそれもあったかもしれない。しかし、それよりも当時、子規が十八歳であったこと、そして夏休みを故郷の松山ですごした後、二ヶ月ぶりで東京に戻ってきたこと、そのことが子規をして夜ではなく朝霧の中に常燈明台を見させたのではないだろうか。


北の丸公園と九段のともし
 故郷での時間を体験した子規は、改めて東京という大都会の中で生きることの意味を感じたに違いない。野心家で、豪気で、親分肌で、樸実なこの若者は、帰京してすぐの早朝、猿楽町の下宿から九段の坂を登っていった。その坂はこれから自分が登りつめていかねばならない人生の坂であり、まだ人生の朝は明けたばかりだ。そして坂の上には希望を照らしてくれるように、九段のともしが見えているではないか。
 後に生涯苦しめられることになる宿痾をまだ知らない子規にとって、夜は遠かった。朝の道を、ともしに導かれて登っていけばよかった。ただしかしながら、その朝はすっかりときれいに晴れてはいなかった。白い霧におおわれていて、九段のともしもぼんやりとかすんでいた。若い子規にとって前途は洋々としていた。と同時に、茫々としていた。

 
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