第一章 逢初橋(つづき)
谷中の路地
二人の若者は、浅黄色の帯がかすかに左右に揺れながら小さくなっていくのを黙って見送った。やがて、Mはたまらず口を開いた。
「おい、一体誰なんだい、あれは」
Nは首を傾(かし)げたまま答える。
「わからん」
「わからんて、金さん、むこうは貴公のこと知ってる風だったぜ」
「そんな風にも見えたが、やっぱり人違いだったのじゃないか。何となく中途半端な顔つきだったような気もするし」
「いや、そうではあるまい。あれはあの人のゆかしさめいたものがあれ以上あの人を動かさなかっただけで、確かに金さんのことは知ってるよ」
「ずいぶん常さんは自信があるんだな」
「ああ、金さんと違って俺はこの道の経験は豊富だからね」
「嘘ばっかり言ってらあ」
「嘘なもんか。知らぬは金さんばかりなりってね」
「どうだかね。でも、僕にはどうも憶えがないんだが」
「どうにも勿体ない奴だな、貴公は。まあ、鈍い金さんでもその内いつかは思い出すだろうよ」
そう言うとMは快活に笑った。Nは苦笑いをして頭をかいた。
逢初橋を渡った二人は左へ折れ、広々とした野の中をしばらく歩いた後、初音町を通り天王寺町に出て、それから裏道に入った。
谷中墓地の東南の角に接して、花や線香を商う店が二、三軒並んだ小さな横町がある。突き当たって折れ曲がった角に、空を摩するような大きな一本の銀杏(いちょう)の老樹が立っているため、銀杏(ぎんなん)横町と呼ばれている横町だった。その孤高な老樹に抱かれるようにして一軒の古い家が建っていた。
「どうだ」
その家を指して、Mが一言、威張って言う。
「…………」
何のことかわからないNは、きょとんとしてMを見る。
「あれが蝸牛の家だ。どうだ、立派なもんだろ」
Mはまるで自分のことのように自慢して言う。そして、あとを続ける。
「俺たちと同い歳の人間がああして一家を構え、次々と傑れた作を物している。蝸牛という男は若さに似ず、すでに大成した人物だとも聞いている。金さん、俺たちも負けてはいられないじゃないか」
そう言った後、Mは眦(まなじり)を決した顔つきで高く天に聳える銀杏の大木を見上げた。NはそのMの視線に釣られるようにして、冬枯れの灰色の空をじっと見つめた。
第二章 見帰橋
友人の細君が階下から、お客さまですよーと呼びかける声が聞こえたので、Nはそれまで読んでいた本を閉じると、はーいと大声を返してから立ち上がって部屋を出た。ここ半年近く、Nは二つ歳上ながら学年は同じ友人の家の二階を間借りしていた。この友人は早々と世帯を持っていて、今年の夏前には人の親となる身だった。Nは友人のためにもなるべく早くこの指ヶ谷町の家を出なければと思いながら、友人夫婦の大らかな好意に甘えて何となく日数(ひかず)だけが経っていた。
どうせ誰か学校の友の一人ぐらいだろうと思いつつ階段を下りて、Nが少しぞんざいな加減に障子を開けると、玄関の三和土に立っていたのは思いがけず中年の婦人だった。そして、なお思いがけぬことは、恐らくこの家の玄関に入るまでその婦人の肩を覆い、今その婦人の腕に抱えられている白い毛糸の肩かけが、半月ほど前、逢初橋の上で出逢った若い女の肩にかかっているものとひどく似ていることだった。と言っても、女の持物にいたって疎いNのことだから何も自信や確信があった訳ではなく、ただ、白い毛糸の肩かけから単純に類推しただけかもしれなかった。それに何メートルも離れた位置から見たあの時の白い肩かけに、どれほどの記憶があるだろう。Nが肩かけを見たのはホンの一瞬で、あとは顔を見ていただけなのだから。
婦人は深々と頭を下げた後、Nを見て優しく語りかけた。
「私、菅沼真一の叔母で八重と申します。真一の母の妹に当たる者です。貴方様には真一は本当に御世話になりまして、全く御礼の言葉もございません。私ども心から有難く感謝しております」
Nは婦人が自分の身分を名乗り始めた時から、あーとも、うーともつかぬ小さな声を洩らした。そして、心の中で菅沼の名を大きく叫んでいた。