2003年10月号 掲載
第二章 見帰橋(つづき)
月に一度かそこいらの割合で、真一は土曜の午後から日曜にかけて横浜に帰った。その時のNはただ無性に淋しかった。そして、何をしたらいいのか途方に暮れた。実際、何をしても手に付かなかった。自分はこんな想いをしているのに、真一は僕のことなどすっかり忘れきって家族と和やかな時間をすごしているのだろうなと思うと、Nは真一が憎くなった。こんな風な淋しさとこんな風な憎さは、Nにとって生まれて初めて抱く感情だった。
やがて、Nは真一と一緒にいる時でもある種の淋しさを感じた。と同時に、ある種の憎しみすら感じる時があった。そして、真一が自分と同じ想いをしてるのかどうか、しきりと知りたく思った。しかし、Nから見る真一はいつも快活で恬淡としていた。その上、美しかった。
二人が知り合って三ヵ月の余が経ち、あと十日ほどすると冬の休みに入る時季になった。真一はその時が来るのを楽しそうに語った。それは暮から正月という一年の内で最も心が浮き立つ瞬間に対する少年らしい好奇心の発露でしかなかったが、聞いているNにはそうは響かなかった。自分の知らないところで、自分に係わりのない人たちと、真一は至福の時をすごすことをあんなにも心待ちしているのだ、とNには思えた。
「ねえ金ちゃん、三箇日(さんがにち)がすぎたら遊びに来ないか。横浜の正月は江戸っ子の金ちゃんが見たらびっくりするから」
真一は屈託なく誘った。
「ありがとう真ちゃん、きっと行くよ」
Nはいかにも嬉し気に答えた。けれど、嬉しさは半分だった。残りの半分は淋しさと恨めしさが入り交じった、どうにも自分でも扱いかねる想いだった。
真一は何の曇りもなく三箇日が明けたら逢おうと言う。じゃあそれまではどうすればいいのだとNは心の中で言う。一緒にいる時間がある。別々にいる時間がある。また一緒にいる時間がある。そのことに何の不思議も痛痒も真一は感じていないとしかNには思えなかった。そのことに焦躁と苦痛とを感じているNには、そんな真一が無神経で残酷な痴者とも、鷹揚で天空海闊な智者とも感じられた。そして、真一と別々にいる時間をこれほどに呪っている自分をNは異常と思った。
どっちみち冬休みに入れば帰ることになるのだから、その前の最後の土日は帰らないとばかり信じこんでいたNは、半ドンの授業が終わった後、一緒に清水町に行くつもりでいた。ところが、
「金ちゃん、悪いが今日はこのまま横浜に行くよ。従兄(いとこ)が少し重い病気に罹っていてね。母と見舞いにいく用事ができてしまったものだから」
と真一が言った。不意を突かれたNは、一瞬、我を忘れた。これからの時間、自分の目の前には緑(あお)々とした広い野原が広がっていたはずなのに、それが突然に暗黒の闇の世界へ転じてしまったような気がした。Nは真一に怒りを覚えた。そして、思わずそれを口に出しそうになった。ただ家に帰るというのなら、あるいは本当に口に出してしまったかもしれなかった。けれど、病人を見舞うという用事のためならば、それはやむを得ないことだと自分を何とか得心させた。
Nは努めて明るく粧って答えた。
「ああ、いいとも。じゃあ真ちゃん、月曜日ね」
「うん、じゃ月曜日にまた。金ちゃん、さようなら
谷中の朝倉彫塑館
大きく手を振りながら、真一は美しい笑顔で教室を出ていった。けれども、月曜日の朝、教室に真一の姿はなかった。一時間目の授業が終るやいなや、Nは廊下を走って教員室に向かった。急き込んだNの質問に、担任の教師はまだ何も連絡がないことを告げた。放課後、Nは清水町に駆けつけた。いくら訪(おとな)う声をかけても、いくら玄関の格子戸を叩いても、家の中はしんとしたままで応えるものはなかった。真一は無論、老婆もいないようだった。
今日は来るか、今日は来るかと願いつつ、Nの前に空しい一週間がすぎた。担任の話で、真一が病気で欠席していることは知らされた。しかし、それがどの程度のものなのかは担任も知らなかった。もうどのみち休みがすぐなので来なくてもいいぐらいに思っているのではないか、と立派な髭を蓄えた男は軽い調子で私見を述べた。無論、Nには何の慰めにもならなかった。
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