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2000年11月号 掲載
第零回 墓参
 

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 明二〇〇一年は、正岡子規が明治三十六年(一九〇二年)九月十九日に三十五歳で没して後、百年目の年を迎える。本紙も、故郷伊予最大のヒーローともいうべき子規を偲び、次号から「東京の子規」と題するささやかな不定期連載を始めたい。

 子規が明治十六年、十七歳の時に上京してから根岸で亡くなるまでに訪れて句や歌を残したり、暮らしたりした場所を思いつくままに挙げてみる。向島の長命寺、亀戸天神、本郷の常盤学舎、谷中、芋坂の羽二重団子、道灌山、諏訪神社、そして根岸の子規庵……。田端大龍寺の墓地……。昔の姿を今にとどめるところもあれば、まるで雰囲気の変ったところもあるだろう。

 編集人とともに子規の足跡を探訪していただくのは、子規晩年の絶唱「佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに」を題とする小説『佐保神の別れ』の作家井上明久さんと、画家の藪野健先生(早稲田大学教授)のお二人である。

 今回は、連載に先立ち、井上、藪野両先生とともに北区田端、大龍寺にある子規の墓に詣でた。
大龍寺(地図)は、JR山手線田端駅の北口から近い、八幡坂を下った上八幡神社の右隣にある。大正時代に多くの文人や芸術家が住み「田端文士村」と呼ばれた界隈の一角である。門の左脇にある「子規居士墓所」という碑を見ながら境内に入り、新築された本堂の脇を抜け、久し振りに墓地の左手奥にある子規の墓所に立った。

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子規の墓の左側に子規が友に書き送った小さな墓碑銘がある。畳み掛けるように、本名から幼名、筆名と重ねながら、事実のみを淡々と記し、最後に月給四十円と結んである。
 「コレヨリ一字増シテモ余計ヂャ」という、子規の言を重んじて、没年も忌日も空欄の□が入ったままだ。私はここに来ると、いつも声に出したつもりでこの碑銘を読む。そして、偉大な子規をなんとなく身近な存在に感じる。

 子規の墓所で 子規が明治32年の秋に書いた「墓」という文章の一節に「……ああ淋しい淋しい。この頃は忌日が来ようが盂蘭盆が来ようが誰一人来る者も無い。(略)人が来ないので世上の様子がさっぱり分からないには困る。友だちは何として居るか知らッ……」。

墓碑銘
「正岡常規 又ノ名ハ処之助又ノ名ハ子規又ノ名ハ升又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」

●参考『田端文士村』
 近藤富枝著【中公文庫】

   藪野 健画

 
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