2002年08月号 掲載
第16回 千住、草加、西新井〈その三〉
文/井上 明久
二十七歳の子規と二十歳の虚子は、千住を離れ、日光街道を北へ向かう。
「市場のあとを過ぎて散らばる菜屑を啄む鶏を驚かしつゝ行くに固より目的(めあて)もなき旅一日の行程霞みて限りなき此街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問へば面白の名や。
鶯の 梅嶋村に 笠買はん 」
平成の現在、北千住の町から千住新橋を通って荒川を渡り、今の日光街道の一本西側にある旧日光街道を北上すると、最初の町名が梅田、そして次の町名に梅島が出てくる。よほどこの辺りは梅の見所だったに違いない。少し脚を休めるためか、あるいはパラパラと軽く雨が降りかけてもきたせいか、茶店に腰を下ろした子規が店の者に村の名を尋ねると、梅島村との答え。面白の名や、と子規は思った。村の風景とその名前とに合点がいったのだろう。続けて子規はこう記す。
「野道辿れば上州野州の遠山僅かに雪を留め左右前後の村々梅あり藪あり鶏犬昼中に聞ゆ。」
そこいらじゅうに梅が咲いている野道を歩いて、二人は草加(埼玉県草加市)まで足を延ばす。実際これは相当な距離だと思われるが、明治の人間には極く当たり前のことだったのだろう。それに、こんなふうに思うさま歩ける自分を、子規は楽しんでいたに違いない。無論、もうじき歩くことができなくなるとは思ってもいなかったろうが、自分を敬愛してくれる若い友を従えて春の野道を歩く喜びは、どこまでも遠く果てなく尽きることがなかったろうと思われる。
「さゝやかなる神祠に落椿を拾ひあやしき賤の女に路程を尋ね草加に著きぬ。」いったい、あやしき賤の女とはどんな風体をしていたのだろう。また、何でよりによってそんな者に道を尋ねたのだろう。よほど歩いている人間がいなかったのか。あるいは、なにがしかの詩情に動かされて、若い二人は女に声をかけたのか。
ここで、二人から一句ずつ拾う。
梅を見て 野を見て行きぬ 草加迄
順礼や 草加あたりを 帰る雁
前が子規、後が虚子。直情で風景をズバリ切りとる子規の写生に対して、虚子は風景から一編の物語を詠み出そうとする。それはまた、次の場面でも見てとれる。
「八つ下る頃午餉したゝめて路を返し西新井に向ふ道すがらの我一句彼一句数へがたし。」午後二時すぎに昼飯を食べ、草加から西新井への道を戻る二人は、次から次へと句を詠んでいく。ここでも、一句ずつ引用すると、
一村の 梅咲きこぞる 二月かな
茨焼けて 蛇(くちなは)寒き 二月かな
梅が咲きこぞっている二月だという子規と、蛇が寒がっている二月だという虚子。眼前にした村の風景を十七文字という限られた語数の中ですべてを掴みとって歌いきろうとする子規。眼前の風景の中に時間の経過を見出しそこに秘められた小さな物語を歌おうとする虚子。二人、それぞれに面目がある。
西新井大師は東京北部の地にあって、今も信仰が盛んな真言宗豊山(ぶざん)派の寺。弘法大師(空海)がこの地に来て十一面観音像を造り、悪病平癒を祈願したのが始まりとのことで、主に厄除けの参拝者で賑わっている。
「大師堂を拝みて堂の後の梅園を繞り奥の院を廻りて門前の茶屋に憩ふ頃春の日暮れなんとす。」ここでも一句ずつ。もう、どちらが誰と言う必要もないだろう。
日影薄く 梅の野茶屋の 余寒かな
乞(こつじき)の 梅にわづらふ 余寒かな
いざ暮れてしまえば、二月の夜は寒い。二人は
「夜道おぼろに王子の松宇亭を訪ふ。」遠く江戸時代から、王子権現や王子稲荷などの参詣地として、また飛鳥山の桜や音無川の滝浴びなどの行楽地として、王子は栄えていた。恐らくは景勝に恵まれた地に建っていたであろう料亭で、子規と虚子は一日の旅を振り返って楽しく語り合ったに違いない。それから最終の汽車で上野に出、根岸の子規庵へと二人は帰っていった。
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