第63回 「東京の坊っちゃん」〈その5〉
文/井上 明久
- 土佐中村 一條神社 -
「なに、客だって?」
小川さんは唐紙の向こうからの奥さんの大声に呟きで返した。それから、小首を傾(かし)げてつけ加えた。
「はて、今日は誰か来ることになっていたかな」
おれは半分ばかり腰を浮かせつつ、
「私こそ何の御約束もせずに突然に御伺いしまして失礼しました。それではこの辺で……」
というと、小川さんは大仰に右手を振っておれを止めた。
「いやいや、そんな気は遣われるな。どうせ私の客だ、肩の凝る様な者は一人も居らんから。それにまだ碌に話もしてないじゃないですか」
浮かしていた腰を下ろすと、おれは俯(うつむ)いて来客の入室を待った。とりあえず小川さんと客との挨拶が済んだところで辞去しようと思ったからだ。おれは長(なが)っ尻(ちり)とてっちりは大の嫌いだ。
唐紙がやに乱暴に開けられた。
「小川さん、すっかり御無沙汰でした」
「何だ君か、堀田君か」
ほった……? 俯いていたおれは小川さんの声に反射的に頭を上げた。そして、驚いたの驚かないの。どっちだって? 無論驚いたのだ。実に、驚き、餅の木,秋刀魚(さんま)の木なのだ。おれは思わず立ち上がりながら、
「やまあ……」
と言いかけて、あわてて言葉を呑み込み、
「オイ」
と言い直した。何とそこに入ってきたのはあの山嵐だった。おれの声に山嵐はこっちを見た。半年前に別れた時と同じ、叡山の悪僧とでも言うべき毬栗坊主(いがぐりぼうず)に無精髭の顔が、呆然、驚愕、歓喜へと瞬間的に三変化した。そして、大声を張り上げて、
「何だ、ぼっち……」
と言いかけ、少しあわてた様な顔を何だか妙に乙に取り繕って、
「何だ、君じゃないか」
と言い直した。おれと山嵐はどちらからともなく手を差し延べて握り合った。山嵐の野郎、何という糞力だ。おれの右手の親指に残る古い創痕(きずあと)が、そんな筈がある訳もないのに心なしか痛みを感じた程だ。この古創(ふるきず)もおれの親譲りの無鉄砲のせいで拵(こしら)えたものだ。
山嵐の糞力が飛んだ事を思い出させてくれた。ちょいと癪になったので、おれは山嵐に訊いてみた。
「君は会津に帰ったんじゃなかったのか」
「帰るには帰ったが、すぐに東京に来た」
毬栗頭を撫でつつ、何だか不可(いけ)ない事を見つけられた子供の様に山嵐が少し体を小さくしたのがおれには可笑しかった。しかし、それより何よりどうして山嵐は小川さんと知り合いなのだろう。そして、どうして小川さんは山嵐と知り合いなのか。あっ、同じことか。馬鹿見た様だ。
兎(と)に角(かく)、その事がおれには天から不思議だった。もっとも、小川さんにしてみればおれと山嵐が旧知な事が意外だったらしく、おれが質問をするよりも先に小川さんが疑問を投げかけて来た。
「どうして君たちは知り合いなのかね」
「僕達は同じ中学校に勤めていたものですから」
とおれが答えると、山嵐がすかさずその後を継いで、
「そして、同じ時に辞めたんです」
と余計な事をつけ加えた。
「そうか、堀田君もあの中学だったのか。そう言えばそんな事を前に聞いた様な気もしないではないが、何分物忘れが激しくなって右から左へ筒抜けなものでね、これはこれは失敬した」
そこでおれは小川さんに尋ねた。
「それより小川さんはどうしてやまあ……、いや堀田君の事を御存知なのですか」
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