第75回 「東京の坊っちゃん」〈その17〉
文/井上 明久
「よくぞ訊いてくれた」
山嵐は悠然と言う。気の短いおれは些か頭に来た。
「よくぞ訊いてくれたって、こっちは初めっからそれをずっと訊いているじゃないか」
「そうだったか」
山嵐は又も呑気なことを言う。喧嘩っぱやいおれは喰って掛かった。
「そうだったかも糞もない。それを何だ蚊だと文句を付けやがって……」
「そうか。それは失敬した」
と今度は山嵐もやけにしおらしい。天からいい加減なんだか、無闇と素直なんだか、判然しない。そこが山嵐だとも言えるが、妙に感心させられてみたり、ひどく腹立たしく思わされたり、何かと忙しい。
もっとも、と柄にもなく反省してみれば、どうもおれの単純さにも原因があるようだ。相手の言う事をよく最後まで聞きもしないで、何か言いかけたかなと思うと、その言葉だけで即座に判断してしまう。江戸っ子はトロトロしてるのが大の嫌いで、だから何でも蚊でもパッと飛び付いてサッと鳧を着けたがる。どうもこれが失敗の本らしい。それで子供の時から損ばかりして来た。とは言っても、そう単簡に直るもんじゃあない。何せ、この無鉄砲は親譲りなんだから。
「何をしけた顔してやがる」
山嵐の野郎、ズケリと言いやがる。こっちが一寸ばかり過去を振り返り、殊勝な気分になりかかった瞬間、それは失敬したという先刻の言葉とは裏腹の、人を人とも思わぬいつもの叡山の悪僧面が顔を出した。となると、こっちもいつもの坊っちゃん気質が顔を出す。
「何もしけちゃあいねえさ。ただ、いつまでもこんな事をしてるとお互い老けちゃうぜ」
「そいつは不可ない。老けるのは困る、お互いな」
山嵐は茶碗に半分程残っていた酒を、グイと一気に呷った。
「実は、二日前の昼休みにキツネに呼ばれた。初めは四方山話だった。それから、矢鱈とおれの事を誉め出した。大変熱心な教え方で、生徒達からの評判も上々である、などと面と向かって言う。おれは少々気味悪くなるくらいだった。序でに君の事も良く言っていた。二人して我が校の数学を大いに高めてくれたまえと言って、椅子から立ち上がりおれの肩を叩く始末だ」
山嵐の序でにという所は甚だ気に喰わないが、しかしあのキツネがおれの事を誉めていたというのは悪い気分じゃない。人から貶されれば腹が立つし、持ち上げられれば嬉しくなる。たとえ相手がキツネの様な奴でも、そうだ。単純過ぎるのか、おれは。
「最初は幾らかまともに聞いていた。しかし途中から怪しく思えてきた。そうだろ?」
「うん、そりゃそうだ」
おれは山嵐の問に何を考える暇もなく無条件で首を縦に振った。ホンの些かも怪しいとは思わずに山嵐の話を聞いていたおれの心の空隙に、そうだろ? の一語はグサリと突き刺さった。
「それが当然だよ。幾ら君だって、こんな話に裏がある事ぐらいはすぐに気がつく筈じゃないか、なあ」
「無論さ。無論だとも。誰だってそう思うとも」
幾ら君だってという山嵐の言い様には、いつもなら切れのいい啖呵の二つや三つは並べてやるのだが、この時ばかりは素直に受け容れるしかなかった。のみならず、やや追従めいた言葉をおれから掛けてしまった。
「それで、その裏というのは?」
「あの花房章二郎がここに来るってんだ!」
「その花房章二郎ってのは、誰だい?」
「誰だい、だって? この大馬鹿野郎の、頓痴気の、ポンポコペンの、わんわん鳴けば犬も同然の……」
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