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2004年12月号 掲載
第44回 占いについて〈その四〉
文/井上 明久

立間八幡神社
 子規大人、ごめんなさい。
 主役のあなたをずうっと放っておいたままで、漱石のことばかりにかかずらわっていて。でも、他ならぬ畏友のことなので、あと一回だけお許しください。
 占いというものが『彼岸過迄』の中で登場するのは、無論、田川敬太郎を通してである。学校は出たものの、一向に就職にありつくことのできない敬太郎は、窮余の策として自分の将来を占いで見てもらおうと、本郷の下宿からわざわざ浅草まで出向いていく。  当時、敬太郎が下宿している本郷は、文明開化の象徴的空間であり、知的最先端の地であった。それに対して、浅草とはどんなところだったのか。敬太郎にとって、それはこんな風に印象づけられていた。
 「彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父(じい)さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。(略)凡(すべ)ての中(うち)で最も敬太郎の頭を刺戟(しげき)したものは、長井兵助(ひょうすけ)の居合抜(いあいぬき)と、脇差(わきざし)をぐいぐい呑んで見せる豆蔵(まめぞう)と、江州(ごうしゅう)伊吹山の麓にいる前足が四つで後足(あとあし)が六つある大蟇(おおかま)の干し固めたものであった。(略)たいていの不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離(ようきょうりくり)たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎っていたのである。東京へ来てから、この怪しい夢はもとより手痛く打ち崩されて仕舞(しま)ったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠(こう)の鳥が巣を食っているだろうくらいの考にふらふらとなる事がある」
 妖嬌陸離たる色彩とは、あまりにもなまめかしく、美しく、光り輝いているので、悩みまどわされてしまう光景、というほどの意味だろう。敬太郎が浅草に見ていたものは、そうしたこの世ならぬ、非日常的な世界であった。つまりは、本郷では占いを見てもらう気にはならないが、浅草でならそれはありかなと思えるような場所なのである。
 勿論、占いに心(しん)から信仰を寄せている人間にとっては、占いは現実そのもの、日常そのものであろうが、敬太郎にはそこまでの信はない。ただ、占いに全く身を委(ゆだ)ねきるほど非科学的に教育されてはいなかったが、それを端から全く無視してかかるほど文明開化されつくしてもいなかった。敬太郎を現実へと結びつける知の空間としての本郷、そして敬太郎を徒(あだ)な夢の世界へと運んでゆく情念の場としての浅草。そんな浅草に敬太郎は占いを求めて出かけていく。もっとも、そんな時ですら、「どこか慰さみがてらに、まあ遣って見ようという浮気が大分(だいぶ)交っていた」という程度なのだが。
 ところが、ふだんならすぐにでも見つかる占者が、いざ探すとなるとなかなか見当らず、敬太郎は雷門から、駒形、寿、そして蔵前へと足を延ばす羽目になる。「するとやっとの事で尋ねる商売の家が一軒あった。細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書(わりがき)をした下に、文銭占(ぶんせんうら)ないと白い字で彫って、その又下に、漆で塗った真赤な唐辛子が描いてある。この奇体な看板がまず敬太郎の眼を惹いた」
 つまり、この家では一方で七色唐辛子というふだんの暮らしの商品を売り、一方で人の未来を予見する行為もしているのだ。しかも、敬太郎が最初、店番をしているだけの婆さんと判断した老女が実は占いもするのである。そして、いくつかの言葉を与えられた最後に、この婆さんが下した結論がスゴイ。
 「どうすればって、占ないには陰陽の理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自(めいめい)がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考える外(ほか)ありませんが、まあこうです。貴方(あなた)は自分のような又他人(ひと)のような、長いような又短かいような、出るような又這入(はい)るようなものを持って居らっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば旨く行きます」
 こんなことをいわれた敬太郎が、その後、どう行動したかは実地に『彼岸過迄』に当たっていただくしかないが、漱石にとってそれほど単純でなかった占いというものを考える時、この『彼岸過迄』という作品は充分に興味深い。

 
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