第72回 「東京の坊っちゃん」〈その14〉
文/井上 明久
- 湯月八幡(伊佐爾波神社) -
「それじゃあ……」
とおれは言いかけて、けれどすぐには後の言葉が繋らないで、一呼吸おかずにはいられなかった。清は長話で疲れたのか、目を瞑って息を整えようとしていた。
実際の時間にすれば大した事はないのだが、おれの中では随分と長い沈黙が2人を支配した後、思い切っておれは言葉を発した。
「それじゃあ、清、貴女はおれの真個のお祖母さんなんだね」
清は瞑っていた目を力強く見開いて、キッパリと言い返した。
「いえ、坊っちゃん、それは勿体ない。清は死ぬまで坊っちゃんの下女の清で本望です。それが御恩ある貴男のお父さまとの大事なお約束でもありますし。ただ、清は坊っちゃんにたった1つ、お願いがあります」
「何だい? 何でも言ってごらん」
おれは勢い込んで言った。清はか細く干涸びた手を差し延べたので、おれは持ったままの茶碗をその手に渡そうとすると、清はいやいやと頭を振った。おれは持っていた茶碗を畳の上に置くと、清の手を両手で軽く包み込んだ。清はおれの顔をまじまじと見詰めながら言った。
「坊っちゃん、清が死んだら、千代と一緒にどうか坊っちゃんのお寺に埋めて下さいね。お墓の中で坊っちゃんが来るのを千代と一緒に待っておりますから……」
おれは不意に涙が込み上げてきた。そして、清の手を包んでいるおれの両手はブルブルと震えた。清も泣くのかと思ったら、馬鹿に嬉しそうにニコニコと笑った。何か言わねばと思いつつ、
「清、判ったよ。清、判ったよ」
とおれが繰り返すと、清はさも安心した様にコックリ、コックリと繰り返し頷いた。それから、何もかも力を使い果たしたかの如く深く肩を落とした。おれは清の背中を突っ支棒にしていた何枚かの座布団を外し、清を横にさせた。瞬く間に清は眠りに入った。
おれは痩せ衰えた清の顔を見詰めながら、おれが小供の頃の未だ今よりもずっと若かった時の清を思い出した。そうか、そうだったのか、この人がおれの真個のお祖母さんだったのか。そうだと知れば、この人のおれに対する極端な依怙贔屓も合点がいく。
おれは家中の嫌われ者で、また町内では悪太郎と爪弾きをされた。だから、おれは到底人には好かれる性ではないと諦めていた。なのに、この人だけはおれを不思議な位に可愛がってくれた。台所で人がいない時、「貴男は真っ直ぐで良い御気性だ」と賞めて、やに嬉しそうにおれの顔を眺める事が時々あった。まるで自分の力でおれを製造して誇っている様に見えて、おれは少々気味が悪かった程だが、確かにこの人がおれという人間を製造してくれたのだと言えよう。
それにしても、おやじの無鉄砲さにおれは少々呆れると共に、少なからず心動かされた。おれが知ってるあのおやじがこれ程に無茶で大胆であったとは、何とも思いも寄らぬ驚きだった。そして、あの家の中で母と兄に対しておれという鬼子を懐えたおやじが如何なる立場であったかを考えると、おれは初めておやじという人間に温かい想いを抱いた。だから何度も言う様だが、おれの無鉄砲は親譲りの無鉄砲なんだ。
その夜の翌日から、清から僅かながらの元気が感じ取れる瞬間を えて、おれは母の事を、母とおやじの事を断片的に訊いた。きっと清は喋りたい事が一杯あったに違いない。けれど、実際に喋れた事はそれ程にはなかった。
1週間程後、清は息を引き取った。
「清……」
「坊っちゃん……」
「……お祖母さん……」
「…………」
「清お祖母ちゃん……」
「坊っちゃん」
清の最期の言葉だった。
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