第四章 黄昏橋(つづき)
谷中永久寺
門の戸を横に引こうかどうしようか躊躇していた時、玄関の戸が開いてすぐに閉められる音が聞こえたので、Nはあわてて五、六歩後ろに退がった。そのために、それまでNの後ろにいたMの方が前の位置に立たされることになった。
門から出てきたのは叔母だった。叔母ひとりだった。Nは大きく落胆した。
叔母はMを見て訝(いぶか)った。それからMの後ろにいるNに気づいて、ホッとしたような笑みを洩らした。Nは急いで叔母に近づき、頭を下げ、Mを紹介した。二人が互いに名乗りあった後、叔母はNに尋ねた。
「道子をお訪ねですか」
「いえ……、そういう訳では……。根岸からこいつと歩いてきて、たまたま通りかかったような……」
Nは後ろに控えたMをだしにして、弱々しくそう答えた。
「生憎(あいにく)と道子は出かけておりますの。実は今度、前々から口約束のようになっていたお話が正式に本決まりになりましてね。それで今日は主人(たく)と一緒にお相手のお宅に伺っておりますの。そのお宅が白山御殿町なものですから、当分は何かと往き来が頻繁になるのでそれで道子を横浜から引きとったようなわけでしてね。私はこれからお仲人さんの方に行かねばなりませんので、何のお構いもできずに申し訳ありませんがここで失礼させていただきます。またどうぞお遊びにいらしてくださいましね」
そう言うと、叔母は足早やに着物の裾を捌(さば)きながら根津の通りの方へ下りていった。
そのまま同じ道を後から歩くのがどことなく憚られて、Nは清水町への道に歩を進めた。黙ってMはそれに従いてきた。やがて、かつて真一と老婆が暮らしていた家が見えてきた。それは無論、今は誰とも知らぬ人が住んでいる家だった。
それから、そこを右へ折れて藍染川のほとりに出た。辺りは広い野である。太陽は茜雲の彼方に少しずつ姿を消そうとしていた。川の水は緩やかな流れで音もなく、昏れかけた空の下ではほとんど黒く見えた。
そこに小さな石の橋が架かっていた。二人は橋の上に立った。
「この橋は何という名前だい」
Mが尋ねた。それにNは答えた。
「逢い初めて、見帰り、やがて手を取り、黄昏れてゆく」
「何だい、それは」
「この藍染川にはね、上流の方から今言った順でそういう名の橋が架かっているんだ。つまり、逢初橋、見帰橋、手取橋、そして黄昏橋という風にね」
「じゃあ、この橋は……」
「そう、黄昏橋」
「ふーむ。それじゃあ金さんはあの道子さんとやらと、文字通り、逢い初めて、見帰り、やがて手を取り、黄昏れてゆくという訳だ。もっとも、金さんの場合は手を取ったのではなくて手を取られたのだから、その筋書きとは少しばかり異なることになるけどね。しかしまあ、いかにも金さんらしいよ」
MはNの肩を叩いていかにも屈託なげに笑った。少し前に谷中の墓地で笑った笑いとはまるで違っていた。Nは苦笑いをしながら言った。
「ひどいな、常さん。別に僕は黄昏れていったりなどしてませんよ」
「そうかな。さっき道子さんの叔母さんが話しているのを聞いてた時の金さんの顔色ったら、そりゃあなかったぜ。俺が蝸牛先生の評に接した時と同んなじくらいに周章狼狽し、且つ傷心落胆していたと睨んだがどうだ」
「それは誤解だよ。何も僕は道子さんに対して特にどうこうということはないんだ。ただ、親しかった友の妹さんだから、自ずと少しは気になるというだけのことで」
「どこが自ずと、だい。どこが少しは、だい。金さん、そう明からさまに自分に嘘を吐(つ)いちゃいかん。俺の眼力を侮ってはいけないよ」
「無論、日頃から常さんの眼力には大いに敬意を表していますよ。しかし、他のことはともかく、この道ばかりは常さんの眼力もいささか怪しいのではないですか」
「おや、仰有いましたね。それではもう一言申し上げましょう。金さんは確かに道子さんに特別なる関心を寄せている。いや、待て待て。人の話は最後までお聞きよ。しかしながら、その大いなる関心は果して道子さんという人そのものに対してなのか、はたまた喪われた友のあるいはあり得たかもしれぬもう一つの形象に対してなのか。そこんとこが実は金さん自身に判然とはしていないのではないか。どうだい」