過去の連載記事
同じ年の連載記事

2005年10月号 掲載
第54回 早稲田の田圃〈その三〉
文/井上 明久

- 今出の住吉神社 -
 漱石版「病牀六尺」とも言うべき『硝子戸(ガラス)の中(うち)』には、そう遠くはないかもしれない「死」というものに対する考察とともに、すでに遠くなった過去への追憶が静かな口調で語られている。漱石の幼年時代と言えば、たしかに御一新が成って年号は明治と変わったが、目にするものはまだまだ江戸の名残りが優位を占めていたにちがいない。丸の内や銀座といった東京の中心地はいざ知らず、幼い金之助が住んでいた早稲田辺りではとりわけそうだったろう。
 「私の旧宅は今私の住んでゐる処から、四五町奥の馬場下といふ町にあつた。町とは云ひ条、其の実小さな宿場としか思はれない位、子供の時の私には、寂(さび)れ切つて且淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるといふ意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内(しゅびきうち)か朱引外(そと)か分らない辺鄙(へんぴ)な隅の方にあつたに違ひないのである。」
 江戸時代、ここまでが御府内の境界であるとして朱色の線を引いたのを朱引と言うが、漱石の生まれた馬場下はその境い目にあり、江戸の中でもやや田舎めいた土地柄であった。そこで、子規が漱石の家を訪ね、ちょいと散歩に出れば、そこいら中に田圃が広がっていたというわけだろう。
 そんなところで生まれ、育ち、遊びまわった漱石が、はたして子規の言う通り、稲と米が同じものであるのを知らなかったどうか、前回書いたようにちょっぴり疑問ではあるのだが。
 「当時私の家からまづ町らしい町へ出やうとするには、何うしても人家のない茶畠とか、竹藪とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかつた。買物らしい買物は大抵神楽坂迄出る例になつてゐたので、さうした必要に馴らされた私に、左 (さ) した苦痛のある筈もなかつたが、それでも矢来(やらい)の坂を上つて酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出やうといふ、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森(いんしん)として、大空が曇つたやうに始終薄暗かつた。」
 明治初年代の早稲田から神楽坂にかけての一帯がどのようであったか、鮮やかに目に見えるようではないか。人家のない茶畠、鬱蒼とした竹藪、長い田圃路、そうした江戸以来の風景がまだ色濃く残っていたのだ。また、文中にある酒井様とは元小浜藩主酒井氏のことで、酒井氏の邸宅を囲う垣の柵が矢来であったことからこの辺りを矢来町と呼ぶようになったのだが、そんな酒井様の火の見櫓が残っていたことからもまだ旧幕時代の面影を偲ぶこともできよう。そして、足を延ばした先には山の手きつての繁華街である神楽坂があるのに、そこへ至る道の手前は昼なお暗い東京であったというのも、今から思えばずいぶんな驚きである。
 明治二十八年、漱石は東京を去り、松山、熊本、ロンドンと移り、明治三十六年、東京に帰ってくる。そして、千駄木、西片町と移り住んだ後、明治四十年、生家からほど近い早稲田南町に暮らすこととなり、そこが終(つい)の栖(すみか)となる。
 「早稲田に移つてから、私は又其門前を通つて見た。表から覗くと、何だか故(もと)と変らないやうな気もしたが、門には思ひも寄らない下宿屋の看板が懸つてゐた。私は昔の早稲田田圃が見たかつた。然し其処はもう町になつてゐた。私は根来(ねごろ)の茶畠と竹藪を一目眺めたかつた。然し其痕跡は何処にも発見する事が出来なかつた。多分此辺だらうと推測した私の見当は、当つてゐるのか、外(はず)れてゐるのか、それさへ不明であつた。」
 長い歳月の後、縁故の地を訪ねてみれば、生家は下宿屋に変わり、田圃は町へと変わり、茶畠も竹藪もなくなっていた。御一新から四十年が経ち、早稲田も、東京も、日本も大きく変わった。幼き金之助は、教師を経て、作家漱石へと変貌しつつあった。そして、常に自分の前を歩いていた瞠目すべき大いなる友・子規は、疾(と)うに鬼籍の人となっていた。
〔この項、了〕

 
Copyright (C) AKIHISA INOUE. All Rights Reserved.
2000-2008