2001年08月号 掲載
第5回 本郷追分と『月の都』〈その一〉
文/井上 明久
どの傑作を著し、先輩であるニ葉亭四迷、森鴎外、尾崎紅葉に伍して文壇の一角に確かな地位を築いていた。
文京区弥生1丁目、鴎外「細木香以」にある願行寺と
西教寺の間にある学生下宿新館のある路地。
子規と漱石が同じ慶応三年生まれであることは広く知られているが、幸田露伴もまたその年の生まれであった。 そして、子規と漱石の交遊が始まり、二人とも未だ何者でもなかった明治二十二年に、早熟な露伴はすでに『風流仏』を発表し、その後『一口剣』『五重塔』なその、同い歳の露伴に、子規はまいってしまうのだ。 『風流仏』が出て一年後、気になりながらも読まずにいたこの作品を本郷の夜店でみつけ、買って帰って読み始めるが、冒頭から非常に読みにくくてほとんど解することができない。 ところが無理を押して読み進めるうちに、その魅力にすっかり取り込まれてしまう。そして遂には、子規にとって『風流仏』は天下第一の小説となり、露伴は天下第一の小説家となってしまう。
この当時からほぼ十年経った明治三十五年九月の『ホトトギス』に、子規が寄せた「天王寺畔の蝸牛廬」という一文に次のように心境が語られている。
「そこで一つの風流仏的小説を書くことが殆ど予の目的となってそれが為めにいろいろの参考書を集めたこともある。 それが為めに態々三保の松原を見に往ったこともあった。 そうして其極、予は小説を草する為めに寄宿舎はうるさいというので、遂に本郷の駒込に一軒の家を借りて住むことにした。それは明治二十四年の暮近くであった。」
こうして、子規は小説を書かんがために、それも露伴流の『風流仏』的小説を書かんがために、三年半近く住み親しんだ本郷真砂町の常盤会寄宿舎を出て、同じく本郷の駒込追分町三十番地の奥井方の離れに移り住むことになる。
駒込追分町(現、文京区向丘)は東大農学部(かつては一高)があるところで、この前で日光街道と中仙道が分かれるために追分の名が付けられた。 この分岐点の角に建つ酒屋「高崎屋」は、約二百五十年ほども前に創業した老舗中の老舗である。 あるいは子規もこの店を利用したりしたのだろうか。もっとも、食べる方に関しては話題にこと欠かない子規だが、果たして呑む方は如何なものだったろう。 やはりあの身体では呑むことは適わなかったに違いない。
とにもかくにも、駒込追分町に転居した子規は、郷里の親戚などの猛烈な反対を押しきった上での移転だったこともあり、必死の決意の下、面会も謝絶して、小説の制作に没頭する。そして翌明治二十五年二月、『月の都』と題された作品を脱稿する。
本郷界隈に残る古い木造アパート
無論、漱石はまだ小説のしの字も書いていなかった。子規と漱石の交遊においては、常に子規が兄で漱石が弟だった。 その、弟分たる漱石に向かって、「どうだ、オレは小説なるものを書いたんだぞ、それも露伴の『風流仏』張りの小説をだぞ、すごいだろ」と、兄貴分の子規は威張ってみせたに違いない。 そしてこんな風な日頃のやりとりは、漱石によって、後に『三四郎』の中での三四郎と与次郎の関係に投影されていくことになるだろう。
渾身の力をこめて書き上げた一篇の小説『月の都』を、子規はどうしても一人のひとに読んでもらいたかった。 そのひとの評が聞きたかった。 無論、そのひとは幸田露伴だった。子規は、谷中天王寺町二十一番地に住む露伴を、期待と不安の中で訪ねていく。
「追分」一里塚由緒の碑がある根津神社。
鳥居を出ると権現坂、別名S坂の登り口
本郷東大前の古書店棚沢書店。
この場所は日暮里駅前の御殿坂を一本裏に入って一、二分のところで、現在の住所では台東区谷中七の十九あたりになる。道の角に「幸田露伴旧居の跡」の表示があり、傍らに一本の珊瑚樹が葉を繁らせているが、案内によればこれは露伴が住んでいた頃のものだという。この敷地にはグリーンビル谷中というマンションが建っているが、それを少し先へ行くと突き当たりに、何とも言えず物寂びて奧床しい、格子戸造りの門が見える。彫刻家・朝倉文夫の自宅兼アトリエ跡を記念館にした朝倉彫塑館の裏口である。このすぐ近くにはかつて北原白秋も住んでいたが、そうした文化的名残りがいまだどこかに微かながら残っているようにも感じられるのは、墓地を隣にした閑静さのせいだろうか。あるいは、二階建ての木造家屋がまだまだかなり残っていて、そのせいで空が大きく広く見えるからなのだろうか。いずれにしても現在の東京では得がたい空間である。
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