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2003年01月号 掲載
第21回 王子紀行(その三)
文/井上 明久

王子稲荷神社参道でスケッチする藪野健先生と井上明久さん。
 子規、不折、そして鳴雪翁の三人から、おいおい、私たちをいつまで放っておくのだ、これじゃあいつまで経っても王子に着けないじゃないか、と文句が出そうである。ごもっともである。明治二十七年八月十三日の午後四時すぎ、王子の祭を見にいくために根岸の子規庵を出てから、三人は一向に王子に近づいていないのだから。依然、上野に止どまっている。無論、止どまらせているのは僕である。三人のせいではない。あんまり長くこのままにしておくと、肝心の王子の祭が終ってしまうといけないから、そろそろストップモーションのスイッチを離して三人に動きを与えてやらなければいけない。
 汽車で上野を出た子規、不折、そして鳴雪翁の三人は王子に着く。すぐに王子権現に詣でる。
  「老杉雲に聳えて木の間に露店を連ね児童四五宮を廻りて戯るさま祭とは見ゆれど田楽などあるべき様にもあらねば茶店の婆々殿に尋ぬれば今日は田楽なしといふ。社殿に花笠などその面影ばかりを残したり。」
 として、その後に四句を付けている。中では、
  祭見に 狐も尾花 かざし来よ
 が、いかにも王子の祭らしい道具立てを備えていて興がある。
 王子村は古くは岸村といった。これは恐らく、この地が荒川、すなわち現在の隅田川の岸に臨んでいたからだと思われる。一三二二年、この地一帯を支配していた豊島氏によって、熊野若一王子社が勧請された。その社が王子権現、現在の王子神社である。以来、岸村は王子村と名を改め、今に至っている。この王子権現は明治時代に准勅祭社となり、開運厄除、子育大願の神様として広く信仰を集めている。八月十三日の例祭はつとに有名で、それで子規たちも出かけたに違いない。
 ところで、子規の文中に、茶店で田楽のあるなしを尋ねるのを読むと、食い意地の張った僕などは早速に味噌田楽のうまそうな様子を思い浮かべてしまうが、無論さにあらず。もっとも、反射的に僕がそう思ってしまうのは僕の食い意地のせいばかりでなく、何と言っても子規がよく食べる人だという事実からの連想の力が強い。あのグルマンの子規が茶店で田楽のあるなしを尋ねるのだから、そりゃあ、豆腐を方形に切って串に刺し、それに味噌を塗って火にあぶった田楽のことだと思うのがごくごく自然の道理と言うものだろう。などと、己が品性の下劣を他人のせいにしてはいけませんね、ハイ。ともかく、ここでいう田楽は、田植えの慰安のために行なった田楽舞のことで、これは現在、北区の無形文化財となっている。


正月の王子稲荷神社。名主の滝入口。
 JR京浜東北線、営団地下鉄南北線、そして東京にたった一本残った都電荒川線の、いずれの駅からも程近い場所に王子神社はある。境内には都指定の天然記念物の大銀杏が高々と聳えていて、荘厳な雰囲気が漂っている。また、本殿の左手には、髪の祖神として床山・理容業界に信仰されている関神社がある。ここに祀られているのは百人一首でお馴染みの 丸法師で、彼が病で毛が抜けてしまった時、義姉の坂上(逆髪)姫が自分の髪でかつらを作ったとの伝説があり、そこから髪の祖神として信仰を集めるようになったという。
 子規の「王子紀行」には出てこないのだが、王子神社から少しだけ足を延ばすと、王子稲荷神社がある。この稲荷社は関八州稲荷の統領で、毎年大晦日には関八州の狐がここに集まると言い伝えられている。古典落語の名作「王子の狐」の舞台でもある。この落語のもう一つの重要な舞台である、厚焼きの玉子焼きが名物の「扇屋」も、王子駅のすぐそばの音無親水公園脇に今なお健在で賑わっている。無論、子規が王子を訪ねた頃もあったわけで、当時は江戸以来の名残りで花見客をあてこんだ料亭が何軒も並んでいたということである。

 
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