読みたい本:
2002年01月号 掲載
『読書という迷宮』
齋藤 愼爾 著
(小学館/本体1,995円)
豊稔池ダム
この数ヶ月、連続して「東京の子規」を書いてきたが、今回は一旦中断させていただいてどうしても一冊の本を取りあげたい。公的にも私的にも大変重要な意味を持つ一冊なので。それは齋藤愼爾の新著『読書という迷宮』で、二〇〇二年という新しい年を迎えてこうした秀れた本が一冊でも多く広く読者の手に渡ってほしいと願うからである。
というのも、出版界の不況はとどまるところを知らず、その結果として、年間何点か生まれるミリオンセラーにだけは話題が集まるが、ごく普通の本には書店でもたどり着くことが難しいという一極集中の傾向がますます顕著になっている。そして、その象徴とも言えるのが、昨年十二月七日に発表された中堅取次「鈴木書店」の自己破産申請のニュースだった。日本の書籍取次業界においては東販と日販の二社による寡占がずっと続いているが、その状況の中ではコンピュータの徹底した制御による大部数・大量流通が圧倒的優位のもとに支配している。たとえ小部数でもその内容を鑑みてそれなりに適正に配本する、といった人間的要素の入りこんでいく要素がそこにはほとんどない。鈴木書店はそれとは逆のことをやってきた貴重な取次だった。もしだからこそ倒産したのだということであれば、病の根はあまりにも深すぎる。
筆を本題に戻す。本書の著者・齋藤愼爾は、俳人として現代俳句の尖端を疾走する一方、深夜叢書社編集長として出版界にその名を知らない者はいない稀代の名編集者である。『読書という迷宮』は、一九九〇年から二〇〇一年まで十二年にわたり、「出版ニュース」(月二回発行)に書き続けてきた数多くの書評の中から52篇(対象書籍55作)を精選して集めた〈書評〉集である。
本書のオビのコピーに、「読書の達人が大作家から無名の新人までその作品世界を縦横に読み解く」とある。その通り、出版人として編集者として読書人として、酸いも甘いもかみ分ける「本の手練」が、己の眼ひとつにかけて読みとった無類の一冊である。さしずめ大作家の方は
井伏鱒二『太宰治』、吉本隆明『追悼私記』、塚本邦雄『世紀末花傳書』、松本清張『草の径』、幸田文『幸田文対話』、五木寛之『風の幻郷へ』などといったところであり、人気中堅では
宮城谷昌光『天空の舟』、北村薫『秋の花』、中島らも『今夜、すべてのバーで』、橋本治『窯変源氏物語』、赤瀬川原平『ゴムの惑星』、鹿島茂『子供より古書が大事と思いたい』などといったところである。そして無名の新人となると……。これについては最後に譲る。
本書の中のどの一編を取り出しても、わくわくするような知的興奮の世界へと誘ってくれる。すでに読んだことのある本ならば、なるほど、その本にはそういう面白さがあったのか、こりゃもう一度読み返してみなきゃと思わせ、まだ読んでない本ならば、そんなに滅法楽しくて秀れた本を知らなかったなんて、早速本屋へ行って買わなければと駆り立てる。実際、本書のおかげで僕は十数冊の本を買いこむことになるだろう。なぜそれほど読む者を昂揚させるかといえば、それはひとえに出版人、編集者、読書人としての、齋藤愼爾の志の高さにある。本書にはいささかこの種の本としては長目の、六ページにわたる「後書」があるが、思わずその全文を引用したくなるほどに出版及び書籍に対する氏の想い(念い)は真摯で、熱い。
その中からごく短い引用をすれば――「〈書評〉に拘泥するのは、私のささやかな出版体験に発する。刊行した出版物が各紙誌で、書評の対象になるかどうかは極小の出版社にとっては、ときに死活問題ともなる。多くの紙誌が取りあげてくれたらと誰しもが願うだろう。私も創業期においては広報活動に東奔西走、一喜一憂もした。その体験が身に染みこんでいる。本の頁を繰っているときなど、著者よりもその本を担当した黒子たる編集者や出版社に向き合っているという感じがある。(略)『こんな風に紹介してくれたらなあ』という著者と編集者の気持は掬っているつもりである」。さらに、もう少しだけ引用させてもらえれば――「私は自分の〈書評〉が、無名の新人の一行にも心底おどろく感受性を失い、その一行にすべてを棄てて帰依するという謙虚さを失った世の〈書評〉家のそれと同じに映ることを危惧する」。
そうした危惧はまったくの杞憂でしかないことは、本書を読んだ者には身に染みてよくわかるはずだ。氏は無名の新人の一行にも心底おどろく感受性を髪の先ほども失っていないし、その一行にすべてを棄てて帰依するという謙虚さを爪のかけらほども失っていない。感嘆するほど見事なまでに失っていない。
さて、最後に譲ると書いておいて放ったままの、無名の新人、について。52篇の対象の中でそれに該当する人は何人かいることはいるが、たとえ全国的にはまだそれほど知られていなくても、斯界においてはすでに立派な業績を地道に築きあげていたり、しかるべき賞に輝いてちゃんと登竜門を通ってきた人なども多い。そうした中で、正真正銘、どこからどう見ても、堂々と胸張って自慢して(?)、文字通りの、無名の新人がいる。他でもない、井上明久である。なんと僕の処女作
『佐保神の別れ』が52篇の中の一篇として取りあげられているのである。ただ、この作家とこの作品が収録されているという一点のみにおいて、もし『読書という迷宮』が世の信用を失うようなことはないかと、氏の名誉と本書の価値のために僕は心の底から激しく危惧している。
カバーを飾る沢渡朔の美しく誘惑的な写真。今どきの本には珍しく贅沢に銀の箔押しを使ったりした高林昭太の洒落た造本。そして、丁寧に行き届いた索引など、久々に本らしい本に出会えたという喜びを感じさせてくれる。これもすべては、著者である齋藤愼爾の書籍に対する真摯で熱い想い(念い)がもたらしたものである。オビに大きく、「泣ける書評」とあるが、確かに、泣ける本です。
井上 明久 (作家)
▼本書で取り上げられた1冊『昭和文芸院瑣末記』和田利夫。『明治文芸院始末紀』(右)の和田利夫の遺著。夏目漱石ら明治文人が文芸の統制に対して示した気骨と節度。
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